【2784冊目】尾脇秀和『氏名の誕生』
ややこしくも、大変面白い本でした。
苗字があって、名前がある。現代の私たちには当たり前のことですが、実は、江戸時代以前はそうではありませんでした。当時は自分の仕事やポジションに応じて、名前を変えるのも当たり前。名前とはそれほど確固としたものではなく、むしろその人の地位や仕事をあらわす「しるし」のようなものだったのです。
それが大きく変わったのは、明治維新でした。興味深いのは、そこで行われた「姓」と「名」という(現代にやや近い)名前の導入には、朝廷勢力の影響があったこと。実は、武家社会になり、名前のあり方がどんどん変わる中、朝廷の内側だけは平安貴族の世界が保存されていたのです。王政復古の掛け声の中、名前についてもそうした「古来の正しいやり方」に戻すべし、ということになったわけなのですね。
とはいっても、導入はそう簡単にはいきません。本書には、明治政府が行った性急で中途半端な「名前をめぐる改革」の混乱がつぶさに語られています。特に庶民に対しては、政府は「苗字を名乗っても良い」と「許可」を与えただけだったので、苗字を名乗る人と名乗らない人が混在し、大混乱となりました。
それが大きく変わったきっかけは、明治6年に施行された徴兵令でした。およそ国民国家の形成と徴兵制の導入、国民管理はどの国でもセットで導入されるものですが(典型的なのがナポレオン治世下のフランス)、日本でもまた、戸籍を編制して国民を管理し、徴兵を確実に行うことが不可避でした。そのためには、戸籍の単位となる苗字は必須だったのですね。
こうしてみると、戸籍(近代戸籍)も現代の氏名制度も、つまるところは徴兵(と納税)のための国民管理のツールだったわけです。そんな来歴をもつ「氏名」が、今や「名前に紐づけられた単一の個人」という感覚をつくり、ある意味では、私たちをそこに心理的に縛っている。
とりわけ馬鹿らしいのが、夫婦別姓をめぐる議論です。選択的夫婦別姓にさえ反対している人たちは、お公家さんにでもなったつもりなのでしょうか。明治にしか遡れない伝統など、伝統の名に値しないと思います。まあ、だからといって江戸時代に戻れとは言いませんが、私たちはもっと、家庭や仕事、趣味の世界など、場面に応じていろんな「名前」をもってもよいのかもしれません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
【2783冊目】米原万里『マイナス50℃の世界』
今朝のニュースで、カナダでは気温がマイナス50℃に達した、と言っているのを見て、この本を思い出しました。
ロシア語通訳の達人にして名エッセイスト、米原万里の初の著作です。そして、なんと地球上で最も寒い場所、ロシアのヤクートへの旅を綴った一冊なのです。しかもこれ、TBSの企画で実現した取材らしいのですが、写真が山本皓一、同行のリポーターがあの椎名誠という意外な組み合わせ。ちなみに本書の写真のキャプションは全部椎名誠がつけているそうです。
本書で一番強烈なのは、ヤクートの寒さ。なにしろ飛行機から降りた時の気温はマイナス39℃。しかも、出迎えてくれた現地の人は口を揃えてこう言ったというのです。「みなさんは日本から暖かさを運んできてくれましたね。マイナス39℃なんて、こんな暖かい日は久しぶりです」
そうなのです。マイナス50℃、60℃の世界では、われわれの貧弱な常識など通用しないのです。たとえば「真冬のほうが交通は便利」と彼らは言います。この地域に無数に散らばる湖や沼、河川は、冬になると氷が張るので、その上を通れるようになるからです。
あるいは、真冬の車にチェーンはいらない、という言葉も出てきます。なぜでしょうか。氷の上が滑るのは、摩擦熱で氷の表面が溶けて水の膜ができるからです。ところがあまりにも寒いと、摩擦熱程度では氷が溶けない。だから滑ることはないのだそうです。ちなみに同じ理由で、真冬にはスキーもスケートもできません。「スキーやスケートは、春先の、暖かくなった時の遊びさ」と、現地の小学生は言うそうです。
しかし、こんな極寒の地に住むヤクート族は、実に「温かい」人々なのです。なにしろヤクート語には、人を罵る言葉がほとんどないというのですから(だからケンカをする時はロシア語を使うらしい)。そんなヤクート族も、昔はもっと暖かい南方に住んでいたといいます。周囲の攻撃的な部族に追われて北上し、この極寒の地に行き着いたのだろうと著者は想像します。ちなみにヤクートとは「さいはてのさらにはて」を意味するそうです。
とはいえこれは1980年代の話、今はもうちょっと変わっているだろうと思っていたら、ちょっと前に、たまたまつけたテレビがヤクートのことをやっていました。それによると、物資を運ぶトラックは冬の時期に命がけで氷原を突っ切ってくるそうです。なぜなら夏の時期は湖や河川のため地上を通れず、物資は空輸するしかないからだそうで・・・・・・う〜ん、変わってないじゃん。でも、彼らの生活様式と温かい心が今もしっかり守られていて、ちょっとホッとしました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
【2782冊目】宮部みゆき『昨日がなければ明日もない』
杉村三郎シリーズの最新作。「絶対零度」「華燭」「昨日がなければ明日もない」の中編3つが収められています。
「絶対零度」はとにかく読後感が胸糞。しばらく引きずってしまい、次の作品を読めなくなるほどでした。宮部みゆきの「容赦のなさ」が久々に味わえたような。
「華燭」は、なんと同じ結婚式場で同時に2つの結婚式がお流れになるという意外きわまる作品。コミカルですが謎解き要素は3作中いちばん濃いかも。
「昨日がなければ明日もない」は意味深なタイトルですが、その意味がわかった瞬間の切なさがたまりません。ラストで立ち尽くしたしまった杉村探偵、果たして立ち直ることはできるのでしょうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
「私家版・新潮文庫の100冊」を選んでみました
この間、100冊を通して読んでみたのですが、あらためて秀逸なセレクションだと感じ入りました。
ですので、その選書に異をとなえるつもりはないのですが、やはりこう見事な選書眼を披露されると、それをほめるだけではなんだか物足りないんですよね。及ばないながらも、自分なりの「回答」を示してみたくなる、というか。
なので、100冊読破記念企画として(まあ、誰もそんなの期待しちゃいないでしょうけど)「もうひとつの新潮文庫100冊」セレクションを作ってみました。少々長いリストになりますが、ご笑覧いただければ幸いです。
ジャンル分けはせず、基本的に著者名の五十音順にしてあります。複数冊に及ぶものはまとめて一冊とカウント。ちなみにオリジナルの100冊(2021年版)にも入っているものには★印、以前「読書ノート」で紹介したものにはリンク先をつけました。
では、参ります。
1 青木冨美子『GHQと戦った女 沢田美喜』
4 アンデルセン『絵のない絵本』
5 いしいしんじ『ある一日』
【1523冊目】いしいしんじ『ある一日』 - 自治体職員の読書ノート
【473冊目】稲垣足穂「一千一秒物語」 - 自治体職員の読書ノート
8 井上理津子『さいごの色街 飛田』
9 内田百閒『第一阿房列車』
10 遠藤周作『沈黙』★
【2727冊目】遠藤周作『沈黙』 - 自治体職員の読書ノート
11 大岡昇平『野火』
12 オースター『ブルックリン・フォリーズ』
【197冊目】小川未明「小川未明童話集」 - 自治体職員の読書ノート
14 小川洋子『いつも彼らはどこかに』
【1944冊目】小川洋子『いつも彼らはどこかに』 - 自治体職員の読書ノート
【2113冊目】織田作之助『夫婦善哉』 - 自治体職員の読書ノート
17 カーソン『センス・オブ・ワンダー』
レイチェル・カーソン【565冊目】「沈黙の春」【566冊目】「センス・オブ・ワンダー」【567冊目】「海辺」 - 自治体職員の読書ノート
18 カポーティ『冷血』
【2683冊目】トルーマン・カポーティ『冷血』 - 自治体職員の読書ノート
19 カミュ『シーシュポスの神話』
(「新潮文庫の100冊2021」では『異邦人』)
20 河合隼雄『こころの処方箋』★
【1424冊目】河合隼雄『こころの処方箋』 - 自治体職員の読書ノート
21 川上和人『鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』★
【1760冊目】川上和人『鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』 - 自治体職員の読書ノート
【2236冊目】村上春樹・川上未映子『みみずくは黄昏に飛びたつ』 - 自治体職員の読書ノート
(「新潮文庫の100冊2021」では『雪国』)
24 ギャリコ『スノーグース』
【938冊目】ポール・ギャリコ『七つの人形の恋物語』 - 自治体職員の読書ノート
25 キャロル『不思議の国のアリス』★
【2719冊目】ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』 - 自治体職員の読書ノート
【758冊目】ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『ファウスト』 - 自治体職員の読書ノート
28 幸田文『流れる』
29 国分拓『ヤノマミ』
【899冊目】国分拓『ヤノマミ』 - 自治体職員の読書ノート
30 西原理恵子『パーマネント野ばら』
32 佐藤賢一『双頭の鷲』
33 沢木耕太郎『凍』
【2686冊目】沢木耕太郎『凍』 - 自治体職員の読書ノート
34 サン=テグジュペリ『人間の土地』
【368冊目】サン=テグジュペリ「人間の土地」 - 自治体職員の読書ノート
【312冊目】シェイクスピア「リア王」 - 自治体職員の読書ノート
36 シェリー『フランケンシュタイン』
【2050冊目】メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』 - 自治体職員の読書ノート
【1836冊目】島崎藤村『夜明け前』 - 自治体職員の読書ノート
39 ジュネ『泥棒日記』
【2632冊目】ジャン・ジュネ『泥棒日記』 - 自治体職員の読書ノート
40 白州正子『いまなぜ青山二郎なのか』
【2040冊目】白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』 - 自治体職員の読書ノート
41 シン『フェルマーの最終定理』★
【1377冊目】サイモン・シン『フェルマーの最終定理』 - 自治体職員の読書ノート
42 須賀敦子『地図のない道』
43 杉浦日向子『百物語』
【2190冊目】杉浦日向子『百物語』 - 自治体職員の読書ノート
44 高石宏輔『あなたは、なぜ、つながれないのか』
【2517冊目】高石宏輔『あなたは、なぜ、つながれないのか』 - 自治体職員の読書ノート
45 高橋秀実『弱くても勝てます』
【2474冊目】髙橋秀実『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』 - 自治体職員の読書ノート
46 武田綾乃『君と漕ぐ』
【2641冊目】 武田綾乃『君と漕ぐ』 - 自治体職員の読書ノート
49 多和田葉子『雪の練習生』
【1575冊目】多和田葉子『雪の練習生』 - 自治体職員の読書ノート
51 辻村深月『盲目的な恋と友情』
(「新潮文庫の100冊2021」では『ツナグ』)
【2583冊目】辻村深月『盲目的な恋と友情』 - 自治体職員の読書ノート
53 デュ・ソートイ『素数の音楽』
【1365冊目】マーカス・デュ・ソートイ『素数の音楽』 - 自治体職員の読書ノート
54 トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』
【1188冊目】マーク・トウェイン『ハックルベリ・フィンの冒険』 - 自治体職員の読書ノート
【1354冊目】フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 - 自治体職員の読書ノート
57 夏樹静子『腰痛放浪記 椅子がこわい』
(「新潮文庫の100冊2021」では『こころ』)
59 パーカー『殺人者たちの午後』
【2639冊目】トニー・パーカー『殺人者たちの午後』 - 自治体職員の読書ノート
60 橋本治『巡礼』
61 服部文祥『息子と狩猟に』
62 林芙美子『放浪記』
【2254冊目】林芙美子『放浪記』 - 自治体職員の読書ノート
【792冊目】『ちくま日本文学013 樋口一葉』 - 自治体職員の読書ノート
65 日高敏隆『人間はどこまで動物か』
【872冊目】深沢七郎『楢山節考』 - 自治体職員の読書ノート
67 藤沢周平『橋ものがたり』
68 ブラウン『体の贈り物』
【696〜698冊目】レベッカ・ブラウン『体の贈り物』『家庭の医学』『私たちがやったこと』 - 自治体職員の読書ノート
69 古川日出男『聖家族』
70 ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』★
【2504冊目】ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』 - 自治体職員の読書ノート
71 ポー『黒猫・アッシャー家の崩壊』
【202冊目】エドガー・アラン・ポー短編集 - 自治体職員の読書ノート
72 星新一『ボッコちゃん』
(「新潮文庫の100冊2021」では『妄想銀行』)
【2572冊目】星新一『ボッコちゃん』 - 自治体職員の読書ノート
73 星野智幸『俺俺』
【1826冊目】星野智幸『俺俺』 - 自治体職員の読書ノート
74 マキューアン『贖罪』
【1029冊目】イアン・マキューアン『贖罪』 - 自治体職員の読書ノート
75 町田康『ゴランノスポン』
【2223冊目】町田康『ゴランノスポン』 - 自治体職員の読書ノート
【233冊目】水上勉「雁の寺・越前竹人形」 - 自治体職員の読書ノート
77 南直哉『老師と少年』
【2253冊目】南直哉『老師と少年』 - 自治体職員の読書ノート
78 宮尾登美子『櫂』
【1406冊目】宮尾登美子『櫂』 - 自治体職員の読書ノート
【1611冊目】『新編 宮沢賢治詩集』 - 自治体職員の読書ノート
80 宮部みゆき『本所深川ふしぎ草子』
(「新潮文庫の100冊2021」では『魔術はささやく』)
82 六車由美『介護民俗学という希望』
【2530冊目】六車由実『介護民俗学という希望』 - 自治体職員の読書ノート
83 向田邦子『思い出トランプ』
【1934冊目】向田邦子『思い出トランプ』 - 自治体職員の読書ノート
84 村田沙耶香『地球星人』
【2781冊目】村田沙耶香『地球星人』 - 自治体職員の読書ノート
85 メーテルリンク『青い鳥』
【1842冊目】モーリス・メーテルリンク『青い鳥』 - 自治体職員の読書ノート
86 モーム『月と六ペンス』★
【2542冊目】サマセット・モーム『月と六ペンス』 - 自治体職員の読書ノート
87 森田真生『数学する身体』
【2271冊目】森田真生『数学する身体』 - 自治体職員の読書ノート
88 安田登『身体感覚で「論語」を読みなおす』
【1695冊目】柳田国男『遠野物語』 - 自治体職員の読書ノート
【1401冊目】山本譲司『累犯障害者』 - 自治体職員の読書ノート
91 夢野久作『死後の恋』
92 横山秀夫『深追い』
94 ラードナー『アリバイ・アイク』
【2257冊目】リング・ラードナー『アリバイ・アイク ラードナー傑作選』 - 自治体職員の読書ノート
95 ラヒリ『停電の夜に』
97 ルブラン『813』
【248冊目】モーリス・ルブラン「813」「続813」 - 自治体職員の読書ノート
98 ロバーツ『シャンタラム』
99 ロンドン『白い牙』
【2781冊目】村田沙耶香『地球星人』
いや〜、いいですね〜。狂ってます。これまで読んできた村田作品の中でも、本書はかなりぶっちぎっています。リミッターが外れているというか、遠慮がないというか、容赦がないというか。
主人公の「私」は、小学生の頃は自分を魔法少女だと信じていたというのですが、まあ、その程度なら「夢見る年頃」にはよくあることです。でも、34歳にもなって、今度は「私は実はポハピピンポボピア星人」だ、なんて言い出したら、さすがにシャレになりません。
でも、「私」は大真面目なのです。しかも、「性交渉なし」の条件でネットを介して知り合った夫も、おそろしいことに同じ意見、同じ思考の持ち主。彼ら夫婦にしてみれば、周囲の「地球星人」こそ異常、ということになるのです。
彼らによれば、地球星人たちは、ぎっしりと並んだ「人間工場」のなかで、オスとメスのつがいとなって生活し、子供を育てています。この工場から「出荷」された地球星人に求められるのは「世界の道具になって他の人間から貨幣をもらい、エサを買う」ことと「つがいになって、巣に籠って子作りをする」こと。「私」の子宮はこの工場の部品で、やはり工場の部品である誰かの精巣と連結し、子供を製造するのです。
ええと、ここまでは大丈夫でしょうか。このあたりですでについていけない人は、この先を読まずに本を閉じられますから、ある意味幸せかもしれません。でも、私は「こういう考え方もアリかな」と思ってしまったんですよね。思考実験として考えれば、ある意味、真実を突いてるよね、と。
問題は、「私」にとって、これがただの思考実験ではないということです。繰り返しになりますが、「私」は大真面目なのであります。その証拠に、「私」とその夫、そしていとこの由宇は、こうした「地球星人」の洗脳を逃れ、いつかポハピピンポボピア星に帰る日のために、3人でおそるべき共同生活を始めるのです。
この作品はある意味、村田沙耶香の極北です。読み手はその思考にどこまでついていけるかを、徹底的に試されます。世間のウソを暴く筆致に快哉を叫んでいたはずが、気がつくと自分自身が試され、暴かれ、解体されているのです。
いやはや、村田沙耶香は「怖い」。ナメていたわけじゃありませんが、これを読むと『コンビニ人間』などは相当マイルドだったことに気付かされます。この作品に芥川賞が贈呈されていれば、芥川賞もホンモノ、ということになるんですけどね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!