自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1934冊目】向田邦子『思い出トランプ』

 

思い出トランプ (新潮文庫)

思い出トランプ (新潮文庫)

 

 

「機微」というものをこれほどうまく描いた作家を、他に知らない。

男女の機微、夫婦の機微、親子の機微、生活の機微、仕事の機微、社会の機微、人生の機微……。それは一見、ほんのささいなことに見える。でも、そのわずかな裂け目から、見てはならないはずの人の本性がちらりと覗く。向田邦子が巧いのは、その「ちらり」の絶妙な加減である。

たとえば、「かわうそ」の厚子。夫が脳卒中で倒れてからの微妙な変化が、じわじわと迫ってくる。口笛をよく吹くようになる。庭のことで、それまで夫の気持ちを尊重していたのに、急にマンションを建てようと言い張るようになる。外出の時に、胸をぐっと持ちあげるような着付けをする。夫が知らないうちに、庭の事で銀行や不動産屋と相談を薦めていることがわかる……

ささいな兆候が積み重なって、夫の病を楽しむ妻の心理が、薄皮をはぐように暴かれていく。だからといって、今も卒中の後遺症に悩まされる夫には、どうすることもできない、その残酷さ。そこにふと思い出されるのが、かつて子どもが幼くして亡くなった時のことなのだ。

かわうそ」が怖い小説なら、たとえば「大根の月」は、なんともせつない、不思議な味わいの小説だ。誤って子どもの指を切り落としてしまった妻が、夫に愛想をつかし、姑に締め出されるようにして別居に踏み切る。だが夫に呼び出されて聞かされたのは、指先を失ってしまった子どもが、そのことをからかわれても、母親のことは一言も言っていないということだったのだ。

ラスト、夫に戻ってくれと頼まれた妻が実際に戻ったのかどうか、この小説では書かれていない。それは余韻というより、すでに著者が書きたいことではなかったのだと思う。向田邦子はあくまで、そこに至るまでの夫婦の機微をこそ描きたかったのではないだろうか。

「花の名前」も良かった。だが、これは男性より女性に響く小説だろう。ものを知らない夫に花や魚の名前を教え込んでいた妻が、その夫に浮気される。妻は浮気相手に呼び出されるのだが、その相手は「着つけがゆる目」で「しゃべり方も、スプーンを動かす手つきもゆっくり」した、だがそれも演技とも思えるような女なのだ。

だが、その意外性もさることながら、おもしろいのはラストシーン。浮気を責めようとする妻に対して、夫は「終ったはなしだよ」の一言で有無を言わさず片づけてしまうのだ。威圧したわけでも、逆切れしたわけでもない。大きくなった背中ひとつで、妻の言葉をはねつけてしまうのである。これもまた、男と女の「機微」というものであろう。