【2842冊目】町田康『壊色』
これは小説? エッセイ? 日記? それとも詩? 分類不能の一冊です。
例えばこんな感じ。
「確かにそのような日々
石炭殻、風に舞うモノトーンの風景に
突然、フォルクスワーゲン出現する。
確かにそのようなデイズ
悲しい目と憎々しい口もと
壁にむかいて、君の目は閉じられている。日本一の行き止まり。」(「二人の呪師とフリッカ」より)
あるいは、こんな感じ。
「免許を更新し、感情の火災。夕方、なにか盗んでやろうと忍びこんだ近代的なアパートで私は三歳くらいの童子に銅鐸の使用法を説明している。「これは水さしだよ」などと嘘を教えておるのだ。居間に飾ってあったのだ。見ておったら奥からよちよち出てきおったのだ。仕事になんねえ」(「仕事になんねえ」より)
個人的な印象として一番近いのは、以外にも夏目漱石の『夢十夜』でしたが、
あれはまだしも夢の中身だとわかるように書いてあります。
本書はそれすらありません。現実も妄想も、怒りもさみしさも、正気も狂気も、すべてがカオスの中に溶け込んでいるのです。町田康、という巨大なカオスの渦巻の中に。
異様といえば異様ですが、
ひとつだけわかるのは、こんなふうにして書かなければ書けないなにかが、
この本にはみなぎっているということ。
中でも爆笑したのが「【唱歌注解】全アジアの女性たちよ」という章。
ここでは、膨大な数の有名な唱歌が解体され、それに「解説」がついているのです。
まあ、控えめに言って、狂っているとしか言いようがない作品です。
短いものをひとつだけ挙げておきましょう。
「ちゅうりっぷ
国家に対して果たすべき任務を尽くす建国の精神が一つにまとまっているものを、二つにした。これはクーデターである。君は怠けているだろ。インディアンも白人もアジア人も、鼻をみれば感じるものは感謝だよ
裂いた、裂いた
忠、立府の華が
名、乱だ
な、懶惰
赤、白、黄色
どの鼻、見ても
気、礼だな」
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
【2841冊目】『フラナリー・オコナー全短編 上下』
一部、物語の結末に触れておりますので、ご注意ください。
ずいぶん前に読んだきりだったのですが、いくつかのきっかけが重なり、読み返してみました。
ちなみにきっかけの1つは、こないだ読み返したG・ゼヴィン『書店主フィクリーのものがたり』の登場人物の愛読書が「善人はなかなかいない」だったこと。
そしてもうひとつは、映画『スリー・ビルボード』の町山智浩さんの解説で、やはり「善人はなかなかいない」が紹介されていたこと。
特に『スリー・ビルボード』の解説では、「善人は・・・・・・」を通して「暴力を通して恩寵に至る」というオコナーの思想が提示されていて、びっくりしました。
★★★
で、読み返してみたら、確かに。
この話、ドライブを楽しんでいた家族が脱獄囚によって皆殺しされるという、あらすじだけ見ればなんとも救いのない話なのですが、
その中で、最後まで脱獄囚を説得しようとする「おばあちゃん」が、死の直前に男に向かって言うのです。自分に銃を突きつけながら、駄々っ子のように、自分の人生の理不尽を嘆く男に。
「まあ、あんたは私の赤ちゃんだよ、私の実の子供だよ!」
最初に読んだときは、あまりの展開の残酷さに、すっかりそこを読み落としていたようです。
★★★
とはいえ、それまでの必死で説得を試みるおばあちゃんの姿は、深刻ながらどこかこっけいです。
本作に限らず、オコナーは、人々のそうした「こっけいさ」を意地悪なまでにリアルに描いてみせます。
連れの子供に「俺は都会を知っているんだ」と威張ってみせるが、道に迷ってしまう老人(「人造黒人」)。
死病を患ったと思い込んで悲愴ぶり、母親にわがまま放題を言うが、診察を受けたら簡単に治る感染症だとわかってしまった若者(「長引く悪寒」)。
自分の息子の悩みはほったらかしで、表面的な「善行」に酔う父親(「障害者優先」)。
そんな人々の愚かしさに対するオコナーの仕打ちは、時にきわめて冷酷ですが(特に「障害者優先」のラストは衝撃的でした)、
人間というのは、そんな目に遭わなければ変われないものなのだ、というのが、オコナーの冷徹な認識なのかもしれません。
そういう人間認識に根ざした短編だから、読み終えたあとには衝撃だけではなく、深く刺さった棘のような、いつまでも続く余韻を読み手に残すのだと思います。
その意味で、オコナーの作品は、昨今流行りの「イヤミス」などとは全然違うのです。
10冊のイヤミスより、オコナーの1つの短編を読みましょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
【2840冊目】ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』
原題の「learning to labour」も素晴らしいが、邦題もおもしろいですね。本書のトーンとエッセンスがよく伝わるタイトルだと思います。
本書のテーマは「反学校文化」、日本で言えば「ヤンキー文化」です。学校では教師に反抗し、授業をサボり、仲間とつるんで悪さをし、卒業するとガテン系の仕事に就く連中、といえばイメージしやすいでしょうか。『ビー・バップ・ハイスクール』『ろくでなしBLUES』から『東京リベンジャーズ』まで、マンガでは定番のネタですね。
本書が描いているのは1970年代のイギリスなのですが、現代日本のヤンキーとの類似性は驚くほどです。違うのは、イギリスでは人種差別の問題が大きく登場することと、「女の不良」がほとんど出てこないこと。ハマータウンの不良はなぜか全員男であって、女性は彼らにとってセックスの対象でしかないようなのです。実際にイギリスには「スケバン」はいないのか、著者があえてネグっているのかは定かではありません。
それはともかく、本書が面白いのは、「野郎ども」への膨大なインタビューをもとに、学校での反学校文化を、本書でいう「手労働」の文化との連続性の中で捉え直していること。成績の向上や教師からの評価に反発する彼らのメンタリティは、立身出世や高給への反発にそのままつながっています。彼らにとってはそれよりも「男らしさ」や「その場の楽しみ」を追い求めるほうが重要なのです。
そんなのはけしからん、誰もが向上心を持ち、自己実現を追い求めるべきだ、と思われるでしょうか。確かに、学校は「そういう場所」です。でも、問題はまさにその点なのです。著者の言葉を引用してみましょう。
「教育の理念的な枠組みに縛られた学校では、少数者だけが個人的に成功できる条件を全員が従うべき条件として提示する。それで全員が成功するわけではないという矛盾はけっして明らかにされないし、優等生のための処方箋を劣等生が懸命にこなそうとしても無効であるかもしれないことについては、学校は押し黙っている。ひたむきな学習、辛抱強さ、順応、そしてそれらの立派な等価物として知識を受容すること、これが全員に要求されつづけるのだ」(p.313)
「野郎ども」は、かなり早い段階でこの欺瞞を見抜いていると著者は指摘します。おそらくその理由のひとつは、多くの場合、彼ら自身の親が同じ規範、同じ経験をしているからでしょう。そうでないにしても、彼らにとって、教師の言うことをおとなしく聞いて勉強している連中はバカそのものなのです。「野郎ども」にとっては、それよりも別の価値観、たとえば「いっぱしの男であること」のほうが大事なのですね。
そうした指摘を行う一方で、本書は、そうやって自ら低賃金の単純肉体労働を選ぶ彼らこそが、資本主義社会の底辺を支えていることを見落としません。教師への反抗はしても、彼らは組合闘争や労働運動にはめったに流れません(それは「意識の高い」優等生がやることなのです)。だから「反学校の文化」に属する彼らは、皮肉なことに、実は経営者にとってはたいへん都合の良い「低待遇にも文句をいわない底辺労働者」なのです。
というわけで本書は、ヤンキーたちの反学校文化を糸口に、学校と教育の本質、さらには資本主義と階級社会の本質に迫る、充実した一冊です。後半の分析部分はやや難しいですが、「野郎ども」への聞き取りだけでも、読むとたいへん面白いものでした。洋の東西を問わず、良くも悪くも、ヤンキー文化は不滅なのであります。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
【2839冊目】町田康『夫婦茶碗』
短編2つが入っています。「夫婦茶碗」は働かない夫が妻に言われていろいろ仕事をするがうまく行かない話、「人間の屑」はいろいろあって逃げ回らざるを得なくなったパンクロッカーの珍道中・・・・・・なのですが、そこは町田康ですから、それだけでは済みません。とにかく饒舌で、しかもどんどん脱線していく、その脱線が面白い。
「夫婦茶碗」では、童話作家になろうといきなり思い立った「わたし」による「子熊のゾルバ」というお話が延々と展開され、
「人間の屑」では、脱「SMうどん」というとんでもないネタに爆笑。
まあ、筋書きがどう、という話は、こと町田康に関しては野暮なこと。とにかくこのパンクでシュールな文章に、ひたすら乗っかって楽しむのがよいでしょう。
ちなみに「夫婦茶碗」は織田作之助の「夫婦善哉」、「人間の屑」は太宰治の「人間失格」の、それぞれ町田流本歌取りなのでしょうね。
あと、筒井康隆の解説も素晴らしい。町田康は中高生時代、筒井康隆の作品が大好きで、たくさん読んできたそうですが(「作家の読書道 町田康」より)、ここまで評価されれば本望でしょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!