自治体職員の読書ノート

自治体で働くソーシャルワーカーが、読んだ本を紹介します。

【本以外】角川武蔵野ミュージアムに行ってきました



昨日オープンした「角川武蔵野ミュージアム」に行ってきました。

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東所沢駅から10分程歩くと、突然あらわれる偉容に度肝を抜かれます。隈研吾デザインの建物は、巨大な岩石が空から降ってきたかのよう。


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敷地内にはナゾの鳥居とのぼり旗。近寄ると・・・


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なんじゃこりゃ。


鳥居を抜けると社殿のような建物。


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横に回ると・・・


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なるほど。

88箇所巡りの見立てなのですね。


さて、いよいよ本館へ。


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中に入ると、会田誠のアマビエと奈良美智のオブジェがお出迎え。


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今日の目当ては上階の「エディットタウン」のなかの「ブックストリート」と「本棚劇場」。


ブックストリートは、独特の並びとレイアウトの「本の街」。


かつて丸善にあった「松丸本舗」をご存知の方なら、アレのグレードアップ版、と言えばわかりやすいかと。


入り口には全体の分類と、松岡正剛「館長」のメッセージが。


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で、中はこんな感じなんですが、、、


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実はワタシ、訳あってここの選書を一部お手伝いさせてもらっておりまして(プチ自慢)、今日の最大の目的は、その「成果」の確認だったんです。


どの場所かはヒミツですが、今見るとちょっと硬かったかな。もう少しヘンな並びでもよかったかも。


まあ、自分はさておき、とにかくユニークな棚が多い。特にこのあたりになるとだいぶ面白いです。


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浅草弾左衛門とアカギが同じ本棚に入ってるなんて、全国でもここぐらいではないでしょうか。


このへんもだいぶヤバめ。


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本だけじゃなくて、映像や謎のオブジェも組み合わされています。


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天井からもいろんなモノが。まるでお祭りみたい。


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奥に進むと、巨大な「本棚劇場」が。


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ただ、こちらはほぼ「眺めるため」のもの。インスタ映えはしますが。


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行った時はプロジェクションマッピングをやってました。


今回はここだけの紹介でしたが、ほかにもマンガ・ラノベ図書館や荒俣宏の「妖怪伏魔殿」などいろいろありますし、エディットタウンの中にも展示スペースがあるので、本好きならエディットタウンだけで一日潰せそう。閲覧のみで購入できないのは、残念というべきか、財布のためには良かったというべきか。


ただ、マンガやアニメ好きにどのくらい訴求するのか、本棚だけでどれくらい集客を継続できるのか、というところは少々気になります。今のところ展示系が多いですが、講演会や対談などの単発のイベントをバンバン入れていかないと息切れしそう。せっかくの施設なので、息長く頑張ってほしいと思います。

【2575冊目】ジュール・ヴェルヌ『海底二万里』

 

海底二万里 上 (角川文庫)
 

 

 

海底二万里 下 (角川文庫)
 

 

小学生の頃、児童書のダイジェスト版で読んで以来の再会だから、う~ん、ウン十年ぶり? 当時はとにかく、スリリングな海底の冒険に度肝を抜かれた。その後の水族館好き、海洋生物好きは、すべてこの本がきっかけだった。

中身はすっかり忘れていたつもりだったのだが、読んでみるとあら不思議、みるみる当時の記憶がよみがえってくる。海底森林の散歩にサンゴの墓、古代都市アトランティスに沈没船の財宝、氷の中に閉じこめられる恐怖に巨大なタコの襲撃、船の襲撃にラストの大渦巻。それこそ海底に沈む船のように、すべてが記憶の底に残っていて、それが読み返すとともに表面に浮かんでくるのである。忠実な召使コンセイユと銛打ちの名人ネッドのコンビも懐かしい。

それほどに当時の児童向けダイジェストがよくできていた、ということなのだろうが、「大人向き」のオリジナルバージョンと何が違うかといえば、とにかくその圧倒的な「ウンチク」である。ノーチラス号の仕組みから海中生物の知識、さらには世界各地の見どころ情報までが濃密に詰め込まれている。かといって退屈かといえばまったくそんなことはなく、むしろ物語に彩りと深みを添えてくれている。

驚くべきは本書が書かれた年代である。なんと1869年、日本でいえば明治維新の年なのだ。その時点で、電気で動く潜水艦に世界中の海の生物、南極に至るまでの世界の描写に加え、なんとクジラやマナティの乱獲や絶滅の生態系への影響にまで言及していたのである(マッコウクジラは悪いヤツだからいくら殺してもいい、というくだりはいただけないが)。しかも、誰も見たことのない海底の神秘を鮮やかに描写し、サメや巨大タコの襲撃などの迫真のシーンも盛り込んで、超一級のエンターテインメントに仕立て上げているのだ。おそるべしジュール・ヴェルヌ、である。

そして忘れてはならないのが、語り手であるアロナックス教授と並ぶもうひとりの主人公、ネモ艦長の存在だ。鋼のような意思と冷静沈着なリーダーシップ、復讐となると我を忘れる激情家、弱き者、虐げられている者に手を差し伸べるヒューマニスト、乗組員の死に涙を流す部下思いの上司、そしてラスト近く、一隻の船を乗組員ごと沈めた後には「全能の神よ、もうたくさんです! ああ、もうたくさんです!」と苦悩する一人の人間(こんなシーンがあったことに、今回初めて気づいた)。その孤独なダンディズムこそ、本書のもうひとつの強烈な魅力なのである。

 

【2574冊目】児玉真美『私たちはふつうに老いることができない』

 

 

このタイトルが「刺さる」人は、おそらく障害者の親かその関係者だろう。障害当事者にさえなかなか光が当たらない中、「障害者の親」のことはほとんど無視されていると言ってよい。一方、当事者運動や当事者研究の流れの中では、障害者の親は障害者の自立を阻害する「悪者扱い」さえされることがある。

本書はそんな状況に対する異議申し立ての書である。自身も障害者の親である著者の体験と、多くの親へのインタビューを組み合わせて、「障害者の親であること」のリアルを克明に綴る。その世界は、障害者支援に携わった経験のある私でも、正直言って想像を超えるものだった。特に「障害者の母親であること」は、ほとんど「人間を超えること」と同義語であるようだ。

子どもが生まれたばかり、あるいは小さい頃に「子どもに障害がある」ことを受け止めるところから、その道ははじまる。夕方から明け方まで続く「狂気のような」泣き声が続き、その間はずっと子どもをあやし続けなければならない。歩けるようになると、目を離すとすぐ行方不明になるため一瞬たりとも気が抜けないという状況が、場合によっては子どもが成人に達したあとも続く。少なくない家庭で、夫は無理解・無協力、義父母からは「世間体が悪い」「ウチの家系にこんな子はいない」と責められるということも起きる。さらに、健常児のきょうだいがいても構う余裕がなく放置状態になってしまう。大人になれば今度は「子離れしろ」「共依存だ」と言われ、施設に入れれば「子どもを見捨てた」と陰口をたたかれ、かといって自分が年老いるまで家で面倒をみれば、自分の老いや配偶者の介護と大人になったわが子の介助が重なり、預け先が決まらなければ入院さえできない。

誰かに助けを求めればいい、福祉サービスを使えばいい、と思うだろうか。しかし実際には「助けを求めるには余力がいる、その余力もない」(p.79)のである。せめて苦労を分かち合えるのは、同じ「障害者の親たち」の仲間である。全国どこにでも「親の会」があるのは、やはり理由のあることなのだ。

もちろん、苦労ばかりではない。そこにはやはり子どもが少しずつ成長し、歩いたり言葉を話したときの喜びはあるだろうし、障害のある子どもと共に生きるからこその楽しさも発見もあるだろう。しかし、それにしたって、「障害者の親」は今まであまりにも放置されすぎた。どんなに福祉サービスが整備されても、それは親の無償の介助を「含み資産」として計上したもの。障害者本人の介助や支援の担い手とは見られても、親自身が「支援を必要とする人」とみなされることは、おそらくほとんどなかった(わずかに「レスパイト」という言葉があるくらいか)。そんな状況の中、文字通り超人的な活躍を強いられてきたのが、障害者の親たちではなかったか。

本書は障害者の親という「もうひとりの当事者」による、心の叫びを濃縮したような一冊だ。障害者の親である人が読めば、ここにたくさんの同志を見つけることができるだろう。親戚や知人に障害者がいる人が読めば、その親である人を支えるやり方がわかるかもしれない。障害福祉サービスに従事する人、医療関係者などの「専門家」が読めば、障害者の親に対して、今までとはすこし違った接し方ができるかもしれない。ともあれ、いろんな人に、長く読まれてほしい一冊である。

【2573冊目】伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

 

 

「目が見えない」とはどういうことか。目が見える人の感覚要素から「視覚」を引いただけ、ではない。それは「目が見える人とは別の世界」を生きるということなのだ。

 

周囲にある「世界」は同じである。だが、目が見える人と見えない人では、そこから受け取る「意味」が違ってくる。では「意味」とは何かといえば、「『情報』が具体的な文脈に置かれたときに生まれるもの」(p.32)である。本書はそのことを、なんと生物学者ユクスキュルの「環世界」という概念をもとに説き起こしていく。ちなみにこの「環世界」概念は、これ自体が「世界の見え方」が変わりかねない衝撃的な理論なのだ。ユクスキュルの『生物から見た世界』をご一読あれ。

 

それはともかく、確かに目が見えない人は、目が見える人より入ってくる情報量は少ない。だが、そこからどのような「意味」を受け取るかという点に関して言えば、目が見える人も見えない人も同等だ。むしろ情報量が少ないだけ、ものごとの核心を衝くような「意味」を受けることができることもある。

 

例えば、視覚とは基本的に「平面的」なものだ。本書の例で言えば、大阪万博公園にある「太陽の塔」を考えてみる。太陽の塔には、正面に2つ、後ろに1つの「顔」があるという。だが、目が見える人は視覚に頼って太陽の塔を見ているので、なかなか3つ目の「顔」には思い至らない。一方、目が見えない人はもともと視覚に囚われていないので、最初から対象物を立体で捉えることができる。そのため、「太陽の塔に顔が3つ」という認識を自然と持つことができるのだ。

 

さらに言えば、先ほど「正面に2つ、後ろに1つ」と書いたが、これ自体が「目が見える人」の思い込みであろう。いったい誰が、顔が2つあるほうを正面と決めたのか。さらに、目が見えないことでなくなるのが「死角」である。「視覚がなければ死角がない」と本書にもあるが、まさにそのとおり。目が見えない人にとっては、正面も後ろも、さらに言えば表も裏も、外側も内側もない。ある視覚障害者が陶芸をやった時に器の「内側」に装飾をつけたというが、それが奇妙だと思うのは、それこそ目が見える人の先入観である。

 

こう考えていくと、目が見えない人と目が見える人の対話は、ある種の「異文化コミュニケーション」に近いといえるかもしれない。ここで大事なのは、「見えること」を基準に考えないことだ。見えている人が一方的に「情報」を提供するだけでは、一方的、恩恵的な関係にとどまってしまう。それよりも、お互いが受け取っている「意味」を相互に交換することの方が大事だし、なにより面白い。そこでは「目が見えない」ことが、お互いの関係を深めるための「触媒」になるという。目が見えない人も目が見える人も、そこでお互いの「見えている」世界を知り、驚き、共感したり違和感を感じたりする。そこに生れるものこそが、ホンモノのコミュニケーションなのだろう。

 

さて、この「題名」が気になっている人もいるだろうから、最後にコメントを。目が見えないのだから、世界を「見ている」ワケないじゃないか、と思われるかもしれないが、著者はそもそも「見える」という作用を視覚と切り離して考えている。本書に出てくる実験で言えば、目の前の風景や映像をビットマップ化して電気的な刺激に変換する装置をおでこに当てて刺激を与えると、目が見えない人も「あ、見える見える!」と叫んだという。「見る」とは、本質的には、目ではなく脳の作用なのである。目以外のところから入ってきた情報であっても、脳が反応することで「見る」ことは当然あり得るのだ。この点では、目が見えない人も目が見える人も、同じような感覚を得ることになる。

 

それ以外にも本書は、運動や絵画鑑賞といった様々な状況における「目が見えない人の見え方」をさまざまな角度から明らかにしていく。そこからまさに「見えて」くるのは、目が見えないことによって得られる豊かな「意味」の世界である。それは、福祉的な視点や医療的な視点からは決して見えてこない、わたしたちのすぐ隣にあるワンダーランドなのである。

 

 

 

【2572冊目】星新一『ボッコちゃん』

 

ボッコちゃん(新潮文庫)

ボッコちゃん(新潮文庫)

 

 

こないだnoteにもアップしたが、久しぶりに読み返したので、コチラにも。中身はほぼ一緒です。

読んだのは中学生のころだっただろうか。当時はほとんどの本を図書館で借りていたので、手元には残っておらず、古本屋で再購入。真鍋博の表紙やイラストがなつかしい。

当時、星新一ショートショートは片っ端から読んでいた。他のどの小説とも違っていた。ドライで未来的な世界観。エヌ氏、エフ氏というネーミングもしゃれていて、人間臭くないのがよかった。思えば私にとってSFの入口は星新一だった。そこから小松左京、クラーク、アシモフと進んでいけば立派なSFファンになれたのかもしれないが、私はなぜかかんべむさし筒井康隆と読み進んでしまい、ブラックでシュールな世界観のほうにどっぷり浸ってしまった。

短いながら周到に物語が組み立てられていて、特に伏線の使い方が絶妙だ。表題作「ボッコちゃん」は、シンプルで機械的な会話(これって現代のスマートスピーカーの先駆では)しかできない美人ロボットという設定を軸に、これをうまく使って儲けようというバーのマスターの思惑と、機械的な会話だからこそハマっていく人の哀しさみたいなものがうまく組み合わさって、ブラックなラストにつながっていく。環境問題をいちはやく風刺した「おーい、でてこーい」は、なんでも吸い込んでくれる穴という都合の良いものに出会った人間の描写がうまい。石ころからゴミ、放射性廃棄物、人間の死体と、読者を巻き込みながらじわじわとエスカレートさせ、ラストで一挙にひっくり返す。文庫本でわずか6ページの分量ながら、人間の愚かしさと環境問題の本当のヤバさを、どんな専門書よりするどく読者に突きつけてくる。

中学生の頃は気にも留めなかった抒情的な作品がけっこう響いてくるのは、やはりそれなりに大人人になったということなのか。「月の光」など、当時はわけもわからず読み飛ばしていたと思われるが、今読むと珠玉の名品である。ホラーっぽい「闇の眼」も、今だといろいろ考えさせられる。人間の能力って何なのか。障害って何なのだろうか。