【2257冊目】リング・ラードナー『アリバイ・アイク ラードナー傑作選』
ヘミングウェイやフィッツジェラルドにも影響を与えたとされるラードナーの短篇集。
「村上柴田翻訳堂」の一冊だが、翻訳は加島祥造。この加島訳がすばらしい。「語り」「会話」が異常に多いラードナーの語り口を、ここまで自然に日本語に置き換えられるとは。
そうなのだ。このラードナー、とにかく「地の文」「描写」といえる部分が少なく、常に誰かが語っていたり、喋っていたりするのである。それもいわゆる「ひねりの利いた」、ジョークやユーモアで埋め尽くされたアメリカン・トーク。むしろ、巻末についている村上春樹と柴田元幸の対談によれば、ラードナーは普通の文章が書けないとこぼしていたそうである。
だが、この会話体、おしゃべり体がいいのである。また村上・柴田対談から引っ張ってきてしまうが、ラードナーの短編はどれも「声が聞こえてくる」のだ。村上春樹はこう言っている。
「小説というのは耳で書くんですよ。目で書いちゃいけないんです。といって書いたあとに音読してチェックするということではなくて、黙読しながら耳で立ち上げていくんです。そしてどれだけヴォイスが立ち上がってくるかということを確認する」(p.466)
この後に村上は、ラードナーと並んでヴォイスが立ち上がってくる作家として「カズオ・イシグロ」を挙げているが、個人的にはそれと並べてコーマック・マッカーシーや、日本なら石牟礼道子、町田康あたりを思い出すのだが、それはともかく、ラードナーの小説の魅力というのもまた、この一言に凝縮しているように思う。
もちろんそれ以外にも、人物造形も抜群だし(「アリバイ・アイク」のアイク、「チャンピオン」のミッジ、「散髪の間に」のジム、「ハリー・ケーン」のケーン、「相部屋の男」のエリオットなど、強烈な印象を残して忘れがたい)、コラムニスト出身というだけあって短い中にもメリハリや起承転結がしっかりしているし……と、ラードナーの魅力はいろいろある。
一方で、やはりラードナーは自分がうまく書ける小説のタイプを熟知していたのだなあ、とも思わされるほど、守備範囲がしっかりしていて、そこからはみ出そうとしないのも特徴だ。そのために、その後の近代小説の主流からは外れ、異色の作家となってしまったが、こういう作家の作品がしっかり復刊されているのはありがたい限り。みんながヘミングウェイやフィッツジェラルドになってしまったら、それはそれでつまらない。