自治体職員の読書ノート

自治体で働くソーシャルワーカーが、読んだ本を紹介します。

【2271冊目】森田真生『数学する身体』

 

数学する身体 (新潮文庫)

数学する身体 (新潮文庫)

 

 

名著である。本書にも再三登場する岡潔や、あるいは寺田寅彦中谷宇吉郎らの著書を思わせる。数学について語っているのに情緒があり、風流があり、俳諧がある。著者が1985年生まれというのがちょっとびっくりするほどに、ふくらみと奥行きのある本だ。

数学と言えば頭の中、あるいは紙とペン、もしくは今で言えばコンピュータでやるものと思っていた。確かに、私たちは子どものころ、ノートと鉛筆で計算をやっていた。だが、そのうち簡単な暗算は頭の中でできるようになる。それまでは紙に書くという「行為」だったものが、そこで「思考」に置き換わる。だが実際には、「行為」と「思考」とは、そんなに明確に分けられるものなのか。

数学は思考するものであって、同時に行為するものなのだ、と著者は言う。行為という以上、そこには身体の存在が欠かせない。思考自体であっても、身体の影響を大きく受ける。本書で大きく取り上げられている岡潔の例をひきつつ、著者は次のように書く。

「記号的な計算は、数学的思考を支える最も主要な手段の一つであることは間違いないが、数学的思考の大部分はむしろ、非記号的な、身体のレベルで行われているのではないか。だとすれば、その身体化された思考過程そのものの精度を上げる―岡の言葉を借りるなら「境地」を進める―ことが、ぜひとも必要ということになる」(p.162-163)

 俳句でも同じようなことがあるらしい。芭蕉の句が他の俳人と大きく違うのは、「生きた自然の一片がそのままとらえられている」ところであると著者は指摘する。頭で考えていては間に合わない。瞬時に対象を捉え、五・七・五に置き換えるには、身体的な「境地」そのものを高める必要がある。数学もまた同じなのである。

そうなると、邪魔になってくるのが「自分」という意識、自己意識なのだ。「自分が」考える、「自分が」理解する、というフレームを外さないと、本当の理解には到達しない。

「「自分の」という限定を消すことこそが、本当に何かを「わかる」ための条件ですらある」(p.139)

 

 

「わかる」とは、単に頭で理解することではない。自分がその相手になりきること、同一化することだ。岡潔の説明を借りるなら、他人の悲しみがわかるとは、自分自身もその悲しみになりきることなのである。もちろん「数学」についても、同じこと。著者はこう書くのである。

「数学において人は、主客二分したまま対象に関心を寄せるのではなく、自分が数学になりきってしまうのだ」(p.174)