自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2517冊目】高石宏輔『あなたは、なぜ、つながれないのか』

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このタイトルは、ちょっとずるい。人間関係やコミュニケーションに悩む人であればあるほど、このタイトルは釣り針のように引っかかって外れなくなる。

 

内容もまた、心に引っかかって外れなくなる「釣り針フレーズ」が満載だ。著者は大学時代に心を病み、路上ナンパを始め、風俗のスカウトマンをやり、カウンセリングを学びカウンセラーになったという変わったキャリアの持ち主。だが、本書で紹介されているのは、そうした経歴から想像されかねないような上っ面のテクニックではない。むしろ「人と人が「つながる」とはどういうことか」というテーマを深く深く掘り下げた、きわめて本質的なコミュニケーション論となっている。

 

そもそも、相手を「分かる」とはどういうことか。そもそもそんなことは可能なのか。著者は「相手に対して、あぁ分かるなぁと共感してしまったとき、分かっていないと思った方がいい」(p.66)と断言する。だいたい、相手のことが100パーセント分かるなんてありえない。むしろある程度の「分からなさ」を抱え、あるいは自分の相手に対する理解の不足やズレを常に意識しつつ、注意深くアンテナを張り続けることが重要なのだ。ところが、相手のことが「分かった」と思った瞬間、私たちはそういった作業をサボり、「自分(だけ)があの人のことを分かっている」という確信に寄り掛かってしまう。子どもに対する親、恋人同士、あるいはカウンセラーとクライエントの関係にも、こうしたことが起こりやすいので注意が必要だ。

 

人のことを理解するには、頭よりむしろ「感じる」ことが大切だ。そして、そのためには、自分自身を深く認識し、覚知することが前提になる。この点で本書がユニークなのは、自分の「身体」を観察するためのエクササイズを紹介していることだ。自分の身体を観察し、認識することは、そこをとっかかりにして自分の心の中を洞察することにもつながってくる。さらに、このエクササイズを応用することで、相手とも身体的に同調することができるようになるのである。

 

「人は空っぽの身体の中で他人を感じる」(p.119)

 

相手のことを感じ取ろうと思った時、どうやってもそこに「自分」が混ざり込んでくる。自分の考え、自分の感情、自分の価値観・・・。その点に無自覚だと、相手の気持ちを理解したつもりになっていても、それは実は自分自身の感情だった、というようなことが起きてしまう。だからこそ、そうした「自分の混ざり込み」をできるだけ自覚していくことが、相手を真に理解し、感じるためには必要となる。

 

一方、相談援助のような仕事をしていると、相手を「説得」しなければならない場面に遭遇することも多い。だが、その時に相手の気持ちに同調できていないと、まず説得はうまくいかない。理屈をいくら並べ立ててもダメである。それよりむしろ、まず自分の主張をおさえ、自分を空にして相手と同調し、自分自身が相手の気持ちになるくらいのつもりで相手を受け入れることが大事になる。

 

「相手の状態を映す人形になりきれていればいるほど、他人の状態を変えていくこともできる」(p.132)

 

このあたりになってくるともはや「奥義」と言った感じもする。自他即融、自即他。だがこうなってくると、自分の意識を自己の内面と周囲の他者のどちらに向けるべきかが悩ましくなる。自分ばかり見つめていてもダメだが、自分をほったらかしにして他人のことばかりに意識が向いているのもダメである。

 

著者は「内側と外側に同時に意識が向いている状態」(トランス状態)を維持するように言う。本書の第6章はまるまる、そうしたトランス状態に入るための方法と考え方について書かれている。それほどにこれは難しい。自分ばかりに囚われてはいけないが、他人ばかり見ていてもダメなのである。いわばダブルフォーカスが必要なのだ。

 

特にやっかいなのは、自分自身が抱えている「悩み」がある場合である。ここでは「悩み続ける人は、その悩みに捉われている自分自身を嫌っているから、同じことで悩み続けてしまう」(p.203)というくだりが重要だ。そう、確かにそうなのだ。ここでもやはり必要なのは、悩みそのものではなく「悩んでいる自分」にフォーカスし、「自分はなぜそのことを悩んでいるのか」を考えることなのである。

 

ここでは著者のあげている例が興味深い。繊細すぎることが悩みのタネで、いつも周りの無遠慮な振る舞いにイライラしていた著者に対して、その時の「先生」はこう言ったのである。

「たしかに君は繊細だ。だけど、世の中にはもっと繊細な人がいる。君はもっと繊細になれるし、ならないといけない」(p.206)

 

ここで起きているのは、「繊細さ」自体をどういうするということではない。「先生」は、著者の繊細さに対する見方、認識を変えたのだ。そして、著者はこの一言をきっかけに、「繊細すぎる」ことを気に病むのではなく、ひとつの武器、長所として認識した。これによって、著者の「繊細さ」そのものは変わらなくても、それに対する悩みは見事に消えたのである。