【1836冊目】島崎藤村『夜明け前』
では、再開する。まずはこちらから。
ひさしぶりの再読だったが、読み終って、なんともいたたまれない気持ちになった。狂死した青山半蔵のいたましさは、私自身にも思い当たる節があった。
半蔵は木曽路十一宿の西端、馬籠の旧家の生まれであり、名主であり、戸長である。参勤交代で大名が泊る宿(本陣)を、青山家は代々取り仕切ってきた。いわば江戸時代の社会システムの中で、半蔵は少なからぬ恩恵を受けていた。
ところがそこに黒船が来て、明治維新が訪れる。大政奉還、版籍奉還が行われ、四民平等の世の中が訪れる。その気配は木曽の山奥にも伝わってきた。
馬籠の主としての青山家にとって、それは望ましい変化ではなかった。木曽路を通る参勤交代がなくなり、宿場町としての経営は厳しくなる。しかも、明治政府は周囲の山林を官有林として、村人の伐採・立ち入りを禁じてしまった。それは村人にとっての収入の途を絶つことにつながる。そのことに反対して奔走した半蔵は、政府によって戸長の立場も剥奪される。
だが半蔵にとっての挫折と失意は、実は、これとは違うところにあった。
半蔵は国学に傾倒していた。平田篤胤や本居宣長を読みふけり、日本が日本の本来の姿に戻ることを夢想した。王政復古によって、それは現実になりそうだった。だが実際には、攘夷はいつのまにか開国となり、西洋人も西洋文明もどしどし日本に入ってきた。神仏分離も中途半端に終わり、しかも国学者たちは、維新において何の役割も果たしておらず、評価もされていないように見えた。
さらに半蔵自身、多くの人々が維新に奔走し、倒れていくなかで、何の役割も果たせなかった。あるとすれば、一時の激情にかられて明治天皇の行幸の車内に歌をしたためた扇を投げ入れたことくらいだが、それはむしろ半蔵の暴走として周囲に記憶されただけだった。無力感にさいなまれつつ、半蔵は馬籠に戻るしかなかった。
「月も上った。虫の声は暗い谷に満ちていた。かく万の物がしみとおるような力で彼の内部までも入ってくるのに、彼は五十余年の生涯をかけても、何一つ本当に掴むことも出来ないおのれの愚かさ拙なさを思って、明るい月の前にしばらくしょんぼりと立ち尽くした」(第2部下巻P.359)
この直後、半蔵は地元の寺に火をつけようとして村人に押さえられ、座敷牢に監禁されて狂死する。復古を高く理想として掲げ、現実には村の戸長として村人の為に奔走した彼の人生は、結局は狂気の果ての死に行き着くしかなかったのだ。
半蔵は、たとえば司馬遼太郎が描いた竜馬や松陰や西郷のような、歴史に大きな足跡を残した人物ではなかった。だが、にもかかわらず藤村は、半蔵の失意の生涯を描くことで、その向こう側に幕末から維新にかけての日本の激動を描き切った。それはまた、半蔵のモデルである藤村の父、島崎正樹を描くことで、藤村自身のルーツと日本の近代のルーツをつなげる作業でもあった。歌人から作家に転じ、自伝的小説を多く書いてきた藤村は、この小説で「自分」と「自分のルーツである父親」と「父の生きた日本」を重ね、いわば父の人生をハブにすることで、「自分」と「日本」を重ねることができたのではないか。
半蔵の感じた失意は、本来、日本人の誰もが感じておくべき失意だったのだと思う。攘夷とは何だったのか、大政奉還とは何だったのか、そして特に、王政復古とは何だったのか。日本にとっての「復古」とは、そもそもなにを意味していたのか。そのことに面と向き合い、自分の理想との矛盾に苦しんだ結果、おそらく半蔵は狂ったのだ。だが、狂うほどにそんなことを考え続けることこそが、ひょっとしたら日本人には必要なのかもしれない。
だが実際には、多くの日本人が、立ちどまって考えることをしてこなかった。青山半蔵の失意と無念を、多くの日本人は呑み込まないままに来てしまった。そのツケを払わされたのが、あるいはその後の軍部の暴走であり、太平洋戦争であったのかもしれない。明治維新は近代日本が経験した巨大な「複雑骨折」であった。その意味を、私も含めて、いまだに多くの日本人は汲み切れていないのかもしれない。