【1611冊目】『新編 宮沢賢治詩集』
- 作者: 宮沢賢治
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1991/08/01
- メディア: 文庫
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「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です」
詩集『春と修羅』の冒頭である……が、さて、こんな言葉で詩を綴った人間が、他にいただろうか。思いつくのは萩原朔太郎だが、朔太郎が都会の電気感覚であるのに比べて、賢治のは自然や宇宙と一体化している。
電気だけではない。読み進むとこんなのも出てくる。もうこうなってくると、他の追随を許さない、完全なる賢治ワールドだ。
「これらについて人や銀河や修羅や海胆(うに)は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です」
「新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白亜紀砂岩の表面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません」
この宇宙感覚、鉱物感覚、時空感覚。しかもこれがまだ、第一詩集の「序」にすぎないのだ。本編を開くと、さらにスゴイことになっている。表題作「春と修羅」を読んでみよう。
「いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾(つばき)し はぎりしゆききする
おれはひとりの修羅なのだ」
春を描いてこんな言葉を連ねた詩人を、私は他に知らない。東日本大震災を経て書かれた詩でさえ、ここまで凄絶ではないだろう。
「まことのことばはここになく
修羅のなみだはつちにふる」
宮沢賢治といえば童話のイメージが強いが、そういえば賢治の寓話的な童話にも、この感覚は活きていた。特に『銀河鉄道の夜』は、賢治の宇宙感覚と鉱物感覚と電気感覚と時空感覚の集大成であったろう。だが、そのルーツは、まさにこの詩集にあったのだ。
さらにここに仏教感覚がまじってくると(賢治は法華経から大きな影響を受けていた)、たとえば『春と修羅』第二集に収められている「晴天恣意」の、次のようなくだりになってくる。
「つめたくうららかな蒼穹のはて
五輪峠の上のあたりに
白く大きな仏頂体が立ちますと
数字につかれたわたくしの眼は
ひとたびそれを異の空間の
高貴な塔とも愕きますが
畢竟あれは水と空気の散乱系
冬には稀な高くまばゆい積雲です
とは云へそれは再考すれば
やはり同じい大塔婆
いたゞき八千尺にも充ちる
光厳浄の構成です」
キリがないので引用はここで止めておくが、この後がまた素晴らしいのだ。ぜひ一読してほしい。
さて、ではこんな圧倒的な賢治ワールドの中で、賢治自身はどこにいるかというと、これが実につつましく、小さくなって存在するのだ。「雨ニモマケズ」に「アラユルコトヲ/ジブンヲカンヂャウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」とあるそのままに。
中でも忘れがたいのは、病の床で書かれた「疾中」の「眼にて云ふ」。何と言っても絶品であり、静かな静かな絶唱なのである。また抜粋引用する。
「だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといゝ風でせう」
「あなたのほうからみたらずいぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです」
肺炎で喀血し、血にまみれながらの詩であるが、それでいてなんと静かで、透明なことか。信じられない。
こんな賢治であるから、その境地は私など及びもつかないのだが、それでも時折見せる鋭い言葉には、まるでその澄みきった眼に見据えられたようで、ドキッとする。まるで自分が「注文の多い料理店」の猟師や、「氷河鼠の毛皮」の鉄砲をもった紳士になったような気分である。例えば次は『春と修羅 第二集』収録の「告別」という詩の一部。農学校の生徒に送った告別の言葉である。
「……けれどもいまごとちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ」
「……そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ」
今の私は「きれいな音の正しい調子」を保っているだろうか? それともすっかり、「すこしぐらゐの仕事ができて/そいつに腰をかけてるやうな」多数の俗物に成り下がっているだろうか?