自治体職員の読書ノート

自治体職員。仕事は福祉系。読書は雑食系。

【2683冊目】トルーマン・カポーティ『冷血』

 


5年にわたる取材をもとに、実際に起きた事件を描く。今では珍しくもないクライム・ノンフィクションの手法だが、当時は斬新だった。もっとも著者自身はこの本を「ノンフィクション・ノヴェル」と呼んだという。事実に取材したとはいえ、そこからカポーティが描き出そうとしたのは、ある種の普遍的な「真実」の物語だったのだ。


冒頭から、著者は被害者のクラッター一家と、加害者となるペリーとディックを交互に登場させつつ、殺人の瞬間に至るまでのプロセスを時間をかけて描いている。特に、被害者のクラッター一家の描写が多いことに驚かされる。この種の作品は、得てして「加害者側」の視点が中心になりやすいからだ。


しかし本書では、冒頭だけではなく、全体を通じて、折に触れて被害者側の描写が入る。クラッター一家がただの「被害者」という記号ではなく、4人の血の通った人間であったことを思い出させるかのように。


実際、クラッター一家の描写と加害者側の描写には明確なコントラストがある。かたや広大な農場を経営し、厳格なメソジストでありながら地元の名士として人々に尊敬されるクラッターと、精神的に不安定で閉じこもりがちの妻、そしてケニヨンとナンシーという年頃の子ども二人という、ふつうの家庭並みの問題は抱えているが裕福で健全な家族。かたや幼少期から虐げられ、施設で虐待を受けて育った「上半身は立派だが下半身は子どものような」ペリーと、一見ふつうの家に生まれたふつうの人間に見えるが狡猾で小児性愛傾向があるディック。それはまるで、光と闇、善と悪の対比のように描かれるが、後半になるにつれて、闇や悪を背負わされたペリーやディックにもそれなりの理由があり、そうならざるを得なかった必然があることが見えてくる。


もちろん、だからといって殺人が正当化されるわけはない。ペリーの姉が送った手紙に書かれているように「汚れた顔をしているのは恥ではない――汚れたままにしておくことが恥なの」だから(p.257)。そうは分かっていても、ペリーの次の言葉を読むと、やはりその理不尽な人生に思いをいたさずにはいられない。理不尽のつけ回しの結果が殺人であるとすれば、ペリーらに理不尽を強いてきた人々は罰せられなくてよいのだろうか。


「あの人たち(注;クラッター一家)はおれを傷つけたりはしなかった。ほかのやつらみたいには。おれの人生で、ほかのやつらがずっとしてきたみたいには。おそらく、クラッター一家はその尻拭いをする運命にあったってことなんだろうな」(p.526)


本書はペリーとディックを「裁く」本ではない。どちらかといえば、乾いたシンプルな文体で、淡々と事実の経過を追っていくだけだ。だが、そのような手法だからこそ、そこに「罪と罰」をめぐるおそろしい真実が見えてくる。後年書かれたクライム・ノンフィクションのうち、いったいどれほどが、この『冷血』を超えて人間の真実を描けているだろうか。そんなことを思わざるをえない、重い重い一冊であった。