自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1575冊目】多和田葉子『雪の練習生』

雪の練習生

雪の練習生

ホッキョクグマの三代記、という予備知識はあった。それなりに評判が高いのも知っていた。でも、そもそもホッキョクグマを描いた小説というのが全然想像できなかったし、それがそんなに面白いというのも、なんだか信じられなかった。みんながあんまり褒めるから、じゃあ読んでみようかな、くらいの感じで手に取った。

ところがまあ、読んでびっくり。ホントに面白いのだ。しかも、ホントにホッキョクグマの三代記なのだ。

最初のホッキョクグマはホテルに泊まり、会議に出席し、自伝を書く「作家」である。この時点ですでに設定がぶっとんでいるのだが、でも物語があまりにも、ホッキョクグマが会議に出て、自伝を書くということを当たり前に描いてるので、違和感を感じるコチラがおかしいような気分になってしまう。不思議の国にいきなり連れ込まれたような、シュールな気分。

それに比べれば、二頭目のホッキョクグマ「トスカ」はサーカスで曲芸をやっていて、こっちのほうがなんだか「ふつう」だ。さらに三匹目のホッキョクグマはベルリン動物園で有名になったクヌートで、これが一番現実味が高い。というか、今ウィキペディアで調べたら、クヌートのお母さんは実際にトスカというサーカスで曲芸をやっていた熊だったらしい。育児放棄のため人工哺育で育てられたというのも同じで、つまり本書のクヌートとトスカは、ある程度現実をなぞっているようなのだ。

つまり後からみれば、一頭目がもっともシュールで、二頭目、三頭目とどんどん現実に近づいているワケなんだが、読むほうはいきなりクマが会議に出て発言したりするところから読み始めるので、最後まで不思議の国を旅している気分が抜けなかった。

風刺? 寓話? いろいろ勘ぐりたくなってくるが(舞台が最初は旧ソ連、次が旧東ドイツだからなおさらだ)、やはりここは素直に、ホッキョクグマの主観から世界を見た文学として堪能するのがよさそうだ。過度に風刺的にならず、過度に幼稚にも難解にもならず、どうしてこういうことができるのか不思議でならないのだが、まさにホッキョクグマが人間の世を眺めたらこういうふうに見えるだろうな、と感じられる言葉だけをつかって書かれているのだ。スゴイ。

読むほどに身体感覚レベルでホッキョクグマになれる、不思議でしかも充実の一冊。