自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2145冊目】中村明『語感トレーニング』

 

語感トレーニング――日本語のセンスをみがく55題 (岩波新書)

語感トレーニング――日本語のセンスをみがく55題 (岩波新書)

 

 

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

では、まずはこの本からいきましょう。新年早々、なんと「練習問題付き」である。大野晋『日本語練習帳』を思い出す。


意味は通るんだけど、なんとなく違和感がある……そんな文章は、選ばれているコトバの「語感」がおかしいことが多い。本書はこの「語感」に注目した一冊だ。

もっとも、「意味」と「語感」はまったくの別モノではない。著者はこれを、コトバの「中心的意味」「周辺的意味」と呼んでいる。どんなコトバも、「何を意味するか」という中核的な情報のまわりに、「どんな感じを与えるか」という心理的で感覚的な情報を、ヴェールのようにふわりとまとっているものなのだ。

例えば「学業を(  )であきらめ、就職することにした」という場合の(  )に入るのは「途中」か「中途」か。「この(   )からラブシーンを見せつけられちゃ、よけい暑くなるね」の(   )には「昼間」「真っ昼間」「昼日中」のどれが入るか。「彼女は(  )が強いから、こんな悲惨な映画には耐えられないだろう」という時の(  )には「感性」「感覚」「感受性」のどれがふさわしいか……。

微妙な差といえば、微妙な差なのだ。だが、そのわずかなニュアンスの違いが決定的な違いを生み出すのが、コトバというものなのである。もっとも本書、例文がいささか古めかしいことは否めない。語感というのは時代によっても変わってくるものだから、これはちょっと残念。もうちょっと若手の文章達人が、こういう本を書いてくれるとよいと思うのだが。

2016年のマイベスト20冊を選びました

2016年、この「読書ノート」に取り上げた本は、151冊。その中で、もっとも印象に残った本、面白かった本20冊を選びました(最初はベスト10にするつもりだったのですが、選びきれず・・・)。

 

個人的な印象評価ですので、客観的な本の良し悪しとは別物とお考え下さい。もちろん、1年間に「読んだ本」が対象ですので、刊行された時期は問いません。これまで読んできた本の振り返りはしてこなかったんですが、あらためて総覧してみるといろいろ見えてくるものがあって、なかなか面白かったですね~。

 

それでは、いってみましょうか。

 

第20位 

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昔ながらの宮部みゆきファンとして、しっかり楽しめました。

 

第19位 

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生命観から思想に至る流れが圧巻。

 

第18位

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イスラムを知らずして世界は語れない。

 

第17位

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圧倒的な力作。そのモーラ力に敬意を表して。

 

第16位

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歴史に残る傑作をリアルタイムで読める喜び。エーコの逝去は今年2月でした。

 

第15位

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物語を読む歓び。物語に遊ぶ愉しみ。

 

第14位

 

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これほど泣ける物語とは知らなかった。「哀切」度では今年のベスト。

 

第13位

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児童虐待の「その後」を知るための本。関係者必読。

 

第12位 

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変幻自在の露伴節。もっと読まれるべき作家だと思う。

 

第11位 

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私の人生のひとつの理想形。ソローの思想も気になる。

 

第10位

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ノンフィクション史に残る不朽の名作。

 

第9位

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こちらはサイエンス・ノンフィクションの傑作。高校生までに読んでほしい。

 

第8位

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戦争とはどういうものかが肌感覚でわかる。新世代の戦争文学。

 

第7位

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現場の知が詰まった一冊。ビジネスマンはMBAより職人に学ぶべき。

 

第6位

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今年もっとも忘れられない事件。数か月後にこれほどの特集を組める「現代思想」の底力を感じる。

 

第5位

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傑作アンソロジー。日本語の「境界線」が見えてくる。

 

第4位

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今年の小説はこれに尽きるだろう。日本での受け止め方がヨーロッパ寄りすぎるのも気になるが。

 

第3位

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正法眼蔵随聞記』は新たな座右の書となった。道元を知ることができたのは大きい。

 

第2位

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衝撃的な一冊。でもこれも、現代の日本の真実なのだ。

 

第1位

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記念すべき2000冊目にして、すべての日本人が読むべき一冊。みんなあまりにも、見えているものしか見なさすぎる。

 

それではみなさま、良いお年を。

来年もまた、いろんな本に出会うことができますように。

【2142・2143・2144冊目】ひろさちや『100分de名著 正法眼蔵』、井上ひさし『道元の冒険』、懐奘『正法眼蔵随聞記』

 

道元『正法眼蔵』 2016年11月 (100分 de 名著)

道元『正法眼蔵』 2016年11月 (100分 de 名著)

 

 

 

道元の冒険

道元の冒険

 

 

 

正法眼蔵随聞記 (ちくま学芸文庫)

正法眼蔵随聞記 (ちくま学芸文庫)

 

 

前から気になっていたが、『正法眼蔵』のあまりのボリュームにおそれをなしていた道元。今回、NHKの「100分de名著」を見てなんとなくアウトラインがつかめた気がしたので、そのまま2冊を読んでみた。

「人間はすべて仏性をもっている。なら、なぜ修行が必要なのか」という問いかけに始まり、仏教の深奥に突き進んでいく道元。印象深いのが、宋で最初に出会ったという老仏僧との対話。典座(食事を作る係)であったその僧に「あなたのような老齢の方がなぜそんな雑務をやっているのか」と問いかけた道元。するとその僧は「あなたは修行の何たるかがわかっていないようだ」と大笑いしたという。

修行があり、食事の支度があるのではない。食事の支度そのものが修行なのだ。掃除も洗濯も、生活のすべてが修行となる。生きていることが修行なのだ。

それはまた「あるがまま」こそが悟りである、ということにもつながってくる。迷っていれば、その迷いこそが悟りなのだ。「仏道を習うとは自己を習うこと、自己を習うとは自己を忘れること」なのだ。それゆえ宋から戻った道元は「眼横鼻直」つまり目が横に、鼻が縦についていること=「あるがまま」を認得したと言い、「空手還郷」つまり空手で帰国したと宣言したのだ。

ちなみにこの「空手還郷」について、私は今まで勘違いをしていた。「宋には何も学ぶことがなかった」と言い切ったものだと思っていたのだが、それは逆で、宋における修行で「手を空にして」帰国したと、道元は言ったのだ。利己心や煩悩などの余計なものをそぎ落とすことが修行の要諦であって、それをやり切ったことが「空手還郷」の宣言につながったのである。

井上ひさしの『道元の冒険』は、そんな道元の生涯をベースにしつつ、そこになぜか現代の色情狂患者を重ね合わせて夢の中で行ったり来たりをさせ、そこに笑いと歌をふんだんに盛り込んだ抱腹絶倒の戯曲である。ここでは筋書きはもとより、挿入されている歌詞がべらぼうに面白く、しかも言葉遊びを尽くしている。例えば「反対コトワザによる喧嘩問答歌」では、堂衆と学生が交互に反対コトワザ(例えば「当たって砕けろ」「急がば回れ」「早い者勝ち」「残り物には服がある」「馬鹿と鋏は使いよう」「馬鹿は死ななきゃ治らない」……と、これがなんと60行にわたって延々続くのである。

そして『正法眼蔵随聞記』。これは道元の言行録を、一番弟子の懐奘が記録したもの。原文は鎌倉時代のものだけあってさすがに読みにくいが、水野弥穂子さんの現代語訳がすばらしい。仏道修行だけでなく、人が生きる上で学ぶべき言葉がたくさんあって、読むほどにうなずかされる。とりあえず「座右の書」の一冊に決定。

ということで、特に印象に残ったいくつかを、ここにメモっておく。無上の人生訓を、どうぞ。なお読みづらいので、ひらがな・カタカナの混在のみ、一方に整理する。

原文「人々皆食分あり。命分あり。非分の食命を求むとも来るべからず」(p.14)
現代語訳「人はめいめい一生にそなわった食べ料があり、寿命がある。分をこえた食や寿命を求めても得られるものではない」

 

 ※寿命と同じように、一生に食べる量にも限りが決まっているというのが面白い。飽食をいましめる言葉なのだろうが、私も含めた現代人にとっても耳が痛い。

原文「学道の人、言を出さんとせん時は、三度顧みて、自利、利他のために利あるべければ是レを言ふべし。利なからん時は止べし」(p.15)
現代語訳「仏道を学ぶ人が、物を言おうとする時は、言う前に三度反省して、自分のためにも相手のためにもなるようならば、言うがよい。利益のなさそうな時には言うのをやめるべきである」

 


 ※「反省する」は「よく考える」と言ってもよさそう。これも仏道に限った話ではなく、上司が部下を指導するときにも応用できそうだ。

原文「学道の人は後日を待って行道せんと思ふ事なかれ。ただ今日今時を過ごさずして、日々時々を勤むべきなり」(p.28)
現代語訳「仏道を学ぶ人は、後日を待って仏道修行をしようと思ってはならない。ただ、今日ただ今をとりにがさずに、その日その日、その時その時に努力すべきである」

 


 ※これも人生の真理であろう。ちょっと古いが「いつやるの? 今でしょ」だ。

原文「当座に領(解)する由を呈せんとする、法を好くも聞かざるなり」(p.47)
現代語訳「その場でよくわかった様子を見せようとするのは、肝心の法の話を、よくも聞いていないのである」

 


 ※わかってもいないのにわかったように見せようといろいろ言う人って、いますよね。わからなければ、ヘンに受け答えしようとせずに、まずはちゃんと聞きなさい。

原文「ただ人をも言ひ折らず、我が僻事にも謂ひおほせず、無為にして止めるが好きなり。耳に聴き入れぬやうにて忘るれば、人も忘れて怒らざるなり」(p.100)
現代語訳「(議論の際には)相手もへこませず、自分の間違いにもしてしまわず、何事もなく、そのままにしておくのがよいのである。相手の議論も、聞こえないようにして、気にかけないと、相手も同様に忘れて、怒りもしないのである」

 


 ※これは大人の議論の仕方の最高峰であろう。ディベートなどやっていて何になろうか。

原文「ただ眼前の人のために、一分の利益は為すべからんをば、人の悪しく思はん事を顧みず為すべきなり」(p.139)
現代語訳「ただただ目の前にいる人のために、身分相応に、自分にできるだけのことは、人が自分を悪く思うのは気にかけないで、利益をはかってあげるべきである」

 


 ※前後の脈絡がないので少しわかりにくいが、要するに人助けをするときに、自分の利益や評判など考えるな、ということだ。この部分のすこし後には「仏菩薩は、人の来って云ふ時は、身肉手足をも斬るなり」(仏菩薩は、人が来て頼むときには、自分の身の肉でも、手足でも切って与えるのである)というフレーズもある。

原文「念々に明日を期する事なかれ。当日当時許と思うて、後日は甚だ不定なり、知り難ければ、ただ今日ばかりも身命の在らんほど、仏道に順ぜんと思ふべきなり」(p.145)
現代語訳「一刻一刻に、明日のあることをあてにしてはならない。その日、その時だけ生きているものと考えて、このあとどうなることかはきまったものではない、先のことはわからないから、ただ、きょうだけでも、命のある間、仏道にしたがおうと思うべきである」

 


 ※これも「今でしょ」系の説話だが、本当に大切な事だ。座右の銘にしたい。

原文「寡人人あって人に謗ぜられば愁と為すべからず。仁無くして人に褒らればこれを愁ふべし」(p.160)
現代語訳「わたしに仁徳があって、しかも悪く言われるならば心配しないでよい。もし、仁徳もないのに人からほめられるならば、それは心配しなくてはならない」

 


 ※唐の皇帝、太宗の言葉。う~ん、たいていの人は逆なんですよね~。

原文「中々身をすて世をそむく由を以てなすは、外相計の仮令なり。ただなにとなく世間の人のやうにて、内心を調へもてゆく、是れ実の道心者なり」(p.182)
現代語訳「身を捨て世間にそむく様子をして見せる人は、かえって、うわべだけで真実の道心者ではない。表面はただ、なんということもなく世間の人と同じようにしていて、内心をととのえてゆくのが、ほんとうの道心ある者である」

 


 ※カッコばかりの人って、たいてい中身はスカスカ。本当にスゴイ人って、見かけはごくフツーだったりするんですよね。

原文「これほどにあだなる世に、極めて不定なる死期を、いつまで生きたるべしとて種々の活計を案じ、剰え他人のために悪をたくみ思うて、徒らに時光を過ごす事、極めて愚かなる事なり」(p.196)
現代語訳「これほどあてにならない世に、死期はいつやってくるかも知れないのに、いつまでも生きながらえていられると思って、さまざまな生活手段を考え、その上まだ、他人に対して悪事をたくらんで、むだに時を過ごすということは、きわめて愚かなことである」

 


 ※これも現代人には耳が痛い。「人を憎みはじめたらヒマな証拠」と西原理恵子も言っていた。

原文「坐はすなはち仏行なり。坐は即ち不為なり。是れ即ち自己の正体なり」(p.216)
現代語訳「座禅はとりも直さず仏行である。座禅はすなわち人間的な営みの一切行われない境地である。これこそ自己の正体である」

 


 ※最後の「これこそ自己の正体」にびっくりする。「何もない境地」こそが自己なのだ。

原文「出世間の利益、都て自利を憶はず、人に知られず主に悦ばれず、ただ人のため善き事を心の中になして、我れは是のごとくの心もったると人に知られざるなり」(p.239-240)
現代語訳「利益に関しては、すべて自分のことは考えに入れず、人に知られることなく、相手によろこばれることなく、ただ、自分の心一つで人のためよいことをして、自分がこのような気持ちをもっているとさえ人に気づかれないようにするのである」

 


 ※この「利益」は他人のための利益を図ること。善行は人に良く思われようとしてやってはならない。

原文「その人の徳を学ばず知らずして、その人はよけれども、その事あしきなり、(あしき)事をよき人もすると思ふべからず」(p.254)
現代語訳「その人の徳を学ぶこともなく、知りもしないで、その人の欠点を、あの人は立派な人だがこういう点が悪い、立派な人でもよくない事をするものだと思ってはいけない」

 


 ※立派な人を見るとやたらにケチをつける人がいるが、みっともない。素直にその立派さを学び、頭を垂れるべきである。

原文「古人云く、「霧の中を行けば覚えざるに衣しめる」と。よき人に近づけば、覚えざるによき人となるなり」(p.282)
現代語訳「昔の人は「霧の中を歩くと、知らないまに、着物がしっとりする」と言っている。すぐれた人に親しんでいると、気がつかないうちに、自分もすぐれた人になるというのである」

 


 ※「朱に交われば赤くなる」と同じことか。霧のたとえがわかりやすい。

原文「玉は琢磨によりて器となる。人は練磨によりて仁となる。何の玉かはじめより光有る。誰人か初心より利なる」(p.285)
現代語訳「玉はみがかれてはじめて器となり、人は練磨してはじめて真の人となる。はじめから光のある玉もなければ、はじめからすぐれたはたらきのある人もあるわけではない」

 


 ※自信をなくしている人に読んでほしい言葉。誰だって最初からできるワケじゃない。

原文「他の無道心なるひが事なんどを直に面にあらはし、非におとすべからず。方便を以てかれ腹立つまじきやうに云ふべきなり」(p.327)
現代語訳「他人の無道心な間違いなどを、すぐさま顔にあらわし、間違いときめつけてはならない。てだてをめぐらして、相手が腹を立てないように言ってやるべきである」

 


 ※これも大事な指摘。耳が痛い。

原文「有る人問うて云く「何んがして仙をえん。」
   仙の云く「仙を得んと思はば道をこのむべし」」(p.338)
現代語訳「ある人が彼にたずねて言った。「どうしたら仙人になることができますか」仙人が言った。「仙人になろうと思ったら、何をさしおいても仙人の道をすてずに行いなさい」と。

 


 ※「何をさしおいても」がポイント。これができるかどうかが分かれ目だ。何になりたくても同じこと。

原文「若し聖教等の道理を心得をし、すべてその心に違する、非なりと思ふか。若し然らば、何ぞ師に問ふ。またひごろの情見をもて云ふか。若し然らば、無始より以来の妄念なり」(p.374)
現代語訳「聖教などの道理を自分で理解し、もし、その理解したところと合わないのはすべて間違いだと思うのであろうか。もしそうなら、なんで師にたずねるのか。また、平生の自分の分別判断に基づいて言うのであろうか。もしそうなら、自分の分別判断などというものは、それこそ無限の過去以来の根拠のない思いにすぎない」

 


 ※こういう人、いますよね。人に質問しておいて「それは違う」とか言う人。その一知半解を捨て去らなければ、どんな物事でも理解には至らないのに。

原文「人の心元より善悪なし。善悪は縁に随っておこる」(p.377)
現代語訳「人の心はもともと善悪はない。善悪は縁にしたがっておこるのである」

 


 ※コメントは不要でしょう。大事なのは、縁は過去にもあったが、現在にもあるものだ、ということだ。

原文「揀択の心を放下しつれば、直下に承当するなり。揀択の心を放下すと云ふは、我を離るるなり」(p.386-387)
現代語訳「是を取り、非をすて、善をとり悪をきらうという差別の心をやめれば、ただちに真実をそのままに受け取ることができるのである。えりきらいする心をやめるというのは、自分を離れることである」

 


 ※原文ではまったく理解できないが現代語訳だとするりと入ってくるくだり。自分というものが、真実を見るさまたげになっている。

原文「ただ時にのぞみて、ともかくも道理にかなふやうにはからふべきなり。兼ねて思ひたくはふるは皆たがふ事なり」(p.399)
現代語訳「ただ時に臨んでいかようにも道理にかなうようにはからうべきである。前もって心づもりをしておくことは、みな道理にたがうことである」

 


 ※一般の考え方とは真逆だが、でもどんな場合に対しても予測をしておくことは無理である。ならば予想外のことが起きるものとして、起きてから流れの中で対応すればよろしい。

では、これをもって今年の読書ノート「書きおさめ」としたい。一年間、読んでいただいてありがとうございました。来年も「読む日々」を続けていきますので、どうぞよろしく。

良いお年を!

【2141冊目】綾屋紗月・熊谷晋一郎『発達障害当事者研究』

 

発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい (シリーズ ケアをひらく)

発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい (シリーズ ケアをひらく)

 

 
著者として熊谷晋一郎の名前もあるが、本書のほとんどは綾屋紗月さんによる「自分語り」。自閉症アスペルガー発達障害の「内側から見た」体験には、ひたすら驚かされてばかりだった。

のっけからびっくりしたのは、「おなかがすいた」という感覚が「わかりにくい」と書かれているくだり。ええ? そんなことあるの? と思ったが、読んでみて納得。「頭が重い」「肩が重い」「ボーっとする」「胸がわさわさする」「胃のあたりがへこむ」等々の身体感覚はあるのだが、それを「空腹」と関係あるものとないものに分けた上で「おなかがすいた」という、いわば「意味づけ」をすることが難しいようなのだ。

こうしたことは、身体内部の感覚のみならず、外部の刺激に対しても生じるという。私たちの多くは、外部や内部からの膨大な刺激(情報)を意味づけ、関係づけながら日々を送っている。だが、実はそこにはさまざまな認知のプロセスが存在するのだ。わたしたちは単に、そのことに無自覚であるにすぎない。

さらに、著者はアウトプットにも苦労する。面白いのは、手話を学ぶことによって、表現することの負担がある程度軽くなったということだ。手話は聴覚に障害のある人のためのものだと思っていたが、「うまく話せない」人に対しても効果があるとは知らなかった。すでにやっているかもしれないが、吃音の人にも参考になりそうだ。

自分が普段当たり前と思っている「感じること」や「表現すること」に、なんとたくさんの過程が折りたたまれていることか。そして自分は、そのことになんと無自覚であったことか。本書を読んで気づかされるのは、そのことだ。発達障害を知るというより、彼らを通じて自分自身の「当事者研究」ができてしまう一冊。

【2140冊目】宮部みゆき『希望荘』

 

希望荘

希望荘

 

 

前作『ペテロの葬列』がすごく気になる終わり方をした「杉村三郎」シリーズの第4作。典型的な巻き込まれ型の主人公だった杉村が探偵事務所を開業、これまでとは違ったスタンスでさまざまな事件に関わっていく。

「聖域」「希望荘」「砂男」「二重身」の4作が収められている。いちおう短編ということになるのだろうが、一つ一つにかなり読み応えがある。現代の世相を織り交ぜながら進められる謎解きは、決して明るい結末には終わらず、釈然としないモヤモヤを読み手に残す。それは著者自身が感じている、現代社会へのモヤモヤ感を反映しているのかもしれない。例えば都会における近所付き合いの希薄さや隣人への無関心について、著者はこう書く。

「このあたりの人びとが特に冷たいわけではない。息苦しい地縁の束縛を嫌った我々やその上の世代が積極的に望んでつくりあげてきた、これが現代日本の普通の地域社会の姿なのだ。大都市では、その有り様がほぼ完成しているというだけのことだ」(p.62)

 



4篇ともハイクオリティだが、中でも圧倒されたのは「砂男」。『模倣犯』を思わせる「絶対悪」の造形は、その人物が最後まで登場しないだけに、かえって不気味な迫力で忘れがたい。「二重身」は東日本大震災の少し後という設定だが、当時の異常な感覚が読むほどによみがえってくる。すっかり忘れてしまっているが、あれはとんでもない「異常事態」だったのだ。