【2118冊目】ヘンリー・D・ソロー『森の生活』
ソローがウォールデン池のほとりに小屋を建てたのは、28歳の時だったという。この年で自然の中で生きることを選ぶのは、早いのか、どうなのか。
いわゆる「隠棲」のようなものではなかった。東洋でいう隠者のようなイメージでとらえてしまっては、ソローの思想の本質を見誤る。ソローはむしろ、生きるということの本来の姿を模索するという前向きな考えから、あえて森での生活を選んだのだ。文明から離れた場所に身を置いたこと自体が、ソローにとってはきわめて本質的な行為だった。本書では孔子の言葉がたくさん引用されているが、ソローはやはり「老荘」ではなく「孔子」のほうなのだ。
とはいえ、本書はたいへん美しい本である。絶妙な自然の描写と、ソロー自身の思索のことばが融合して、ひとつの世界をかたちづくっている。例えば次のくだりなど、こんなふうに一日を送ってみたいと思わせる。
「ある夏の朝のこと、いつもの水浴をすませた後、時々、私は日の出から正午まで陽当りのよい戸口のところに坐り、物思いに耽っていた。周囲は鬱蒼と茂る松林、胡桃、アメリカ漆の樹木が静寂そのものの佇まいの中に群生し、小鳥たちがあたりで囀りながら、音もなく、小屋の中をすいすいと飛び抜けてゆくのだった。やがて夕日が西の窓に落ちて、遥かなる街道を往還する旅人の馬車の音で、ふと私は一日が暮れてゆくことに気づくのであった」
時間を無駄にしている、と思うだろうか? だが、だったら何に時間を費やせば良いのだろうか。ソローはこうも書いている。
「なぜ、そんなに死にもの狂いになって成功を急ぎ、死にもの狂いになって事業に成功したいのか? 人が自分の同僚と一緒に歩調を合せようとしないとすれば、それは、多分、違ったドラムの音を聴いているからであろう。そのドラムがどんな拍子だろうと、また、どんなに遠くから聞こえてこようと、聴こえてくる調べに調子を合せて、歩こうではないか。林檎や樫の木のように、早く成長することが重要なのではない。人は自分の春を夏に変えてしまおうとするのだろうか?」
それにしても、あの物質文明と消費社会の権化のようなアメリカという国に、このような思想家が生まれてくるというのが面白い。だがこれもまた、アメリカなのである。ナチュラリストだけの本にしておくのは、もったいない。