【2824冊目】國分功一郎『中動態の世界』
ケアをめぐる良書を量産されておられる「シリーズ ケアをひらく」の一冊です。
とはいえ、内容はかなりガチの思想書、あるいは思想史に近いものになっています。
登場する名前も、アリストテレス、バンヴェニスト、デリダ、ハイデッガー、ドゥルーズ、ハンナ・アレント、そしてスピノザと、名前を見るだけで恐れ入ってしまうようなメンツがずらりと並んでいます。
にもかかかわらず、本書に書かれている内容は、ケアの現場にも深く関係するものです。
そのことがよくわかるのが、冒頭に出てくる「ある対話」です。おそらく依存症と思われる人と著者自身と思われる人の会話なのだが、そこではこんなコトバが語られているのです。
「しっかりとした意志をもって、努力して『もう二度とクスリはやらないようにする』って思ってるとやめられない」
「僕の友人でも、『回復とは回復し続けること』って言葉の意味が全然分からなかったという人がいるんですよ」
「そうやって理解しようとしてくれている人は、時間はかかっても分かってくれる。けれども、まったく別の言葉を話していて、理解する気もない人に分かってもらうのは本当に大変なのよね…」
この本で著者がやろうとしているのは、おそらく、この断絶に思想的なアプローチから橋をかける試みであるように思います。
それは言い換えれば、「能動」と「受動」の二者択一の枠組みを解体すること。
そこでキーワードとなってくるのが、本書のタイトルにもある「中動態」なのです。
★★★
著者はまず、言語の歴史の古層を辿ります。
もともとは「能動態」と「中動態」の対立があったところ、
それがいつしか「能動態」と「受動態」の対立に置き換わっていった。
さらに、ハンナ・アレントの言う「意志とはそれまでの過去から切り離された絶対的なはじまり」であるとする主張を反転させ、
いかなる行為も絶対的に自由ではありえないという主張を、スピノザの思想を踏まえて展開します。
興味深いのは、そこでアレントが挙げたというカツアゲのたとえです(さすがにアレントは「カツアゲ」とは言いませんが)。
以前、著者の『はじめてのスピノザ』を読んだ時にもでてきましたが、面白いので再度取り上げます。
「銃を突きつけられて財布を渡す行為は自発的と言えるか」という、アレですね。
アレントはこれを、物理的な強制がないのだから自発的行為であると言っているそうです。
でも、本当にそうでしょうか。
そもそもこういう場面において、能動と受動、自発的と非自発的という二者択一を当てはめることは妥当でしょうか。
ここで(本書では紆余曲折ののちに)出てくるのがスピノザです。
スピノザは「私の行為や思考が、私の力としての本質によって説明されうるとき、それらは能動的である」(p.261)と言ったそうです。
この「力」は「必然性」とも言い換えられます。
「自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ」(p.262)。
したがって、カツアゲのようなケースは外部からの強制による行為であるため、能動的とは言えない、ということになるのです。
しかし、これを「受動的」と言ってしまうのも違和感があります。
そこで(歴史的にいえば)復権すべきなのが、中動態という概念なのだ、と著者は言うのです。
中動態とは、このような「周囲からの強制に基づいて自ら行為する」ことなのです。
しかし、スピノザのいう「自分の本質に沿った行為」を続けることは、現代社会のなかでは難しいように思います。
そこには法律もあるし、周囲との付き合いもあるし、過去のトラウマに縛られることもある。
だから、われわれの行為は、「中動態」がデフォルトである、とも言えるのです。その中でいかに自らの内在的な本質に向き合っていくか、いわばスピノザ的な意味での能動性を確保するか、という点に、誰もが苦闘しているのです。
この間読んだ『海と毒薬』の医師や看護師たちの姿を本書にあてはめてみると、彼らもまた、中動態的な状況のみによって「捕虜の生体解剖」という行為に至ったということになるのでしょう。
そこでブレーキとなるべきだったのは、自らの人間としての本質という能動性だったのか、あるいは法規範という別の中動性だったのか。
そして、では、彼らの責任についてはどう考えるべきなのか、ということになってくるわけなのですが、この点が以前読んだ『〈責任〉の生成』のテーマにつながってくるのですね。
最後までお読みいただき,ありがとうございました!