自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2820冊目】伊藤亜紗・中島岳志・若松英輔・國分功一郎・磯崎憲一郎『「利他」とは何か』


「利他」が、コロナ禍で注目を集めているという(ホントに?)。でも、利他って一体なんなのか。今もっとも脂の乗った5人の論者による論考。


とにかくメンバーがめっぽう豪華だ。いわゆる大御所ではなく、思想や創作の第一線で活躍している「イキのいい」メンツばかりを揃えている。「利他」というキーワードながら、扱っているテーマが幅広いのもいい。しかも、それぞれが意外な形で「利他」につながっている。


親鸞の「他力」を取り上げた中島岳志、意外なところでなんと柳宗悦の「民藝」と利他をつなげた若松英輔、小説の書き手の立場から独自の視点で利他を論じた磯崎憲一郎もそれぞれに面白いが、読んでいてもっとも「刺さった」のは、やはりのこと、というべきか、伊藤亜紗國分功一郎の二人であった。もちろんそれは、お二人の議論が、私自身の関心ともっとも近いところにあった、ということもあると思うが。


伊藤亜紗は、利他的な行為には本質的に「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」という「私の思い」が含まれてしまうと指摘する。こうした思いは一見よいことに思えるが、実は「相手は喜ぶだろう」という思いは、容易に「相手は喜ぶべきだ」という思考に変わる。そうなると、利他的な行為がかえって相手を支配することになってしまう。


こうした落とし穴を回避するためには、「自分の行為の結果は予測できない」ことを自覚する必要があると伊藤は言う。これは、言い換えれば、そこには必ず「意外性」があり「他者の発見」がある、ということになる。さらに伊藤は、こうした利他的行為は「自分が変わること」にもつながると指摘する。逆に言えば、こうした変化を自身にもたらさず、「想定内」の結果にしかならない利他は、実は一方的な思いの押し付けになっている可能性が高い。


國分功一郎の議論は、ひょっとしたら本書の中でもっともややこしいが、もっとも本質的なポイントを突いているように感じる。國分は、そもそも「意志によって人は動く」という前提を疑うところから出発し、そうした状態を能動態でも受動態でもない「中動態」と呼ぶ。では、意志によって人は動いていないとすれば、そこに責任はないのだろうか。そうではない、と國分は言う。意志と責任とは、必ずしもイコールではないのである。


そもそも「責任」と「帰責性」は異なる。帰責性とは「引き起こされた罪の帰属先を確定」することをいう。一方、國分によれば、責任とは「自分が応答しなければならないという思い」のことなのだ。そして、奇妙なことではあるが、ある行為が自分の意志に基づいて行われたと思っているうちは、人は責任を感じることはできないという。むしろ中動態的な、意志によらずある行為を行ったと自覚してはじめて、本当の意味での責任を感じるというのである。


このへんは以前読んだ『「責任」の生成』でも出てきた議論だが、やっぱり何度読んでもややこしい。読んでいる間は分かったように思えても、自分でまとめようとするとなかなか難しい。ちなみにここに「利他」がどう関係してくるかと言うと、実は「応答責任」に関連して、最後にちょっと出てくるだけなのだ。利他的な行為もまた、自分の意志に基づくものではなく、中動態的な、ある行為をなすべきと感じる(これが本当の意味での「責任」)ことによって引き起こされるものである、という文脈の中で。


かくして一足飛びに本書全体の結論めいたものをまとめてしまえば、利他とは「うつわ」のようなものだ、ということになろうか。作為とか意志とかではなく、場、あるいは容れ物のようになることが、つまりは利他の本質なのである。なんのこっちゃ、と思われるかもしれないが、本書の5人の議論を読めば、なんとなくイメージできるのではないだろうか。


最後までお読みいただき,ありがとうございました!


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