【1939冊目】絲山秋子『妻の超然』
「超然というのは手をこまねいて、すべてを見過ごすことなのだ」
本書の終わり近くに出てくるこのフレーズを読んだ瞬間、全体が稲光に照らされたように見えてきた。
本書は「妻の超然」「下戸の超然」「作家の超然」の3篇を収めた一冊。超然というちょっと不思議なキーワードでつながった中編集だ。
「妻の超然」は、バレバレの浮気をしている夫と、それに気付きながら超然としている妻の話。夫に対して常に上から目線の妻が、不意に「夫のことを真面目に考えたことがなかった」自分に気付くシーンが秀逸。それにしても、世の中の「妻」の方々は、みなさんこんなに観察力が鋭くて、何でも常にお見通しなものなのだろうか。
「下戸の超然」は、下戸で飛行機恐怖症の「僕」を主人公にした恋愛小説……というべきか。「僕」が私自身にいろいろ似ていて(ダメなものについては徹底的に頑固なところや、善意の行動に疑問を持たない人に拒否感を抱くことなど)、展開はなかなか身につまされるものがあるが、それは私自身が超然としている部類の人間である、ということなのだろうか。でも、私が「僕」の立場でも、美咲さんのNPOを手伝うことは、多分しないと思う。
「作家の超然」は、なんと著者自身を思わせる女性作家の視点で、しかも「おまえ」という主語の二人称小説だ。本書の中では、この作品に一番びっくりした。激辛の社会観察や人間観察、著者自身の考えと大方重なっているであろう小説論・文学論に「おまえ」という突き放した言い方が加わって、これまでに読んだことのない味わい。
個人的には「どんな悩みよりも、人間にとっては「自分が今どこにいるのか」ということの方が大切なのだ」というフレーズが沁みた。悩むより迷え。存在学より存在論。そして文学の滅び。そこで私たちにできることは、せいぜい超然とすることくらいなのだろう。