自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1623冊目】森茉莉『甘い蜜の部屋』

甘い蜜の部屋 (ちくま文庫)

甘い蜜の部屋 (ちくま文庫)

少女という存在には、時々「無垢な邪悪さ」のようなものを感じることがある。無自覚に媚態を振りまき、周りの男たちを翻弄し、支配し、放り出し、それでいて自分自身は常に無垢なまま。現実にそう思えるような少女に出会う機会は、ほとんどなくなってしまったが……

著者はそのさまを「愛情を食らう肉食獣」と呼び、そのひとつの典型をここに創造してみせた。それが本書の「主人公」、牟礼藻羅(モイラ)である。

だいたい父の林作がモイラを溺愛し、しつけも教育もほとんどせず、ただひたすら甘やかし、可愛がるのだから手に負えない。それからもわずか11歳で50代のピアノ教師を狂わせ、数年後にはロシア人の男性ピータアと初体験をするもいきなり相手を翻弄する。結婚相手の天上守安(マリウス)もまた、モイラの言動に一喜一憂し、振り回されてやつれ果て、ボロボロになってしまう。

まるで熱帯雨林に咲く極彩色の花のように、その姿は異様なまでに美しく、その芳香は周りを酔わせ、ほとんどの男たちを惹きつけて離さない。一方で、モイラに惹きつけられなかった男は(天上の園丁、伊作のように)強い反発を感じてしまう。とにかくその存在だけで、男性女性ひっくるめて、周りの人すべてを平静にさせておかない女なのである。

読み始めてしばらくは、このモイラを著者の自画像として読んでいた。特に父の溺愛ぶりは、著者のエッセイ等でよく読むそのままで、エピソードにもかなり自身の体験がストレートに盛り込まれている(百日咳で死にかかったこととか、父に「泥棒してもモイラがやれば上等」と言われたことなど)。あ、ちなみに著者、森茉莉の父は文豪・森鴎外です。念のため。

ところがその後の男性遍歴や、なんといってもモイラの悪魔的な造形となると、これは到底自画像などというレベルでは済まされなくなっている。著者自身を根っこに、違う人格が生まれ出て、そのまま大きくなったような感じというか。だが著者とまったくの別人格なのか、と言われると、なんだかそれも違う気がする。あるいはモイラは、著者の内面にある「もうひとつの自分」なのだろうか……?

林作と鴎外も、かなりの部分重なり合うとは思うが、まるっきり重なり合うとまでは到底思えない。ちなみに著者は別の本に載っていた矢川澄子との対談で、「林作=鴎外説」について「もうお父さんのことを言ってもらいたくないの」と言っている。ついでに言えば同じ対談で著者は、モイラのモデルは俳優ピーター・オトゥールだと言っている。あの「アラビアのロレンス」の俳優である。絶世の美少女のモデルがアラビアのロレンスとは……。著者はオトゥールを「女形」だと言っているが。

さて、本書を読んでいて一番ぞっとしたというか、なんだか「見てはならないもの」を見てしまったと思ったのは、モイラと父・林作の関係である。親子関係の中に、それとは違うなんだか甘酸っぱいあやしげな要素が忍び込んだ「父娘関係」は、それ以上の関係にはならないだけに、かえって底深いエロチックさを感じる。私もそうだが、娘をもっている父親だったら、たぶん林作のモイラへの感情に、なんともいえない後ろめたさと居心地の悪さ、自分でも見ないフリをしている「ヤバイもの」を感じてしまうのではないだろうか。

「モイラは今では、林作と自分とが入っている愛情の密室、甘い蜜の部屋をたしかに、探りあてている。モイラと林作との間にあるものは、父親と娘との間の親しみであって、そこに危険がある筈はない。だが何かの、不思議なものがあって、その何かが、父と娘との親愛の中に微かに危険の苦みを添加している。その微かな苦みの中に、在るとも、無いとも、わからぬ混沌の中に、陶酔がある。その現実には無い筈の危険が、あるかも知れぬように思われる。意識の狭間に、陶酔がある」(p.353)


それは、ピータアにも、夫の天上にもかえって入り込めない、父と娘だけの独占領域なのだ。近親相姦なのではない。近親相姦に至らないからこそ、つまりセックスがないからこそ、かえって立ち入ることのできない関係というものがあるのである。それこそが本書のタイトルにもなっている「甘い蜜の部屋」なのだ。

だから本書の解説で矢川澄子が指摘しているように、父はことあるごとに、ひそかな「微笑い」を漏らす。それは父だけが享受できる勝利の笑みであり、官能を通過しないからこそ到達できる絶対領域のものなのだ。

それにしても、改めて思うのだが、父・鴎外と娘・茉莉の小説は、なんでこんなに違うのか。親子ということを差し引いても、小説の世界のもっとも離れた場所に二人は立っているように感じる。極限まで言葉を削ぎ落とした晩年の鴎外の小説に比べて、森茉莉の小説は濃厚で、執拗で、それでいて言葉をギリギリのところで制御していて、別種の凄みを感じさせる。

鴎外が塩煎餅なら、茉莉はフランス製のシュークリーム(じゃなかった、シュウ・ア・ラ・クレェム)。鴎外の影を確かに感じながら、そこから抜け出そうとするのではなく、天心のまま、無垢のままに綴った文章なのだ。それで60歳を過ぎてから、10年をかけて描き上げたのが、本書。う〜ん、やはり森茉莉は「牟礼藻羅」なのだろうか。

森茉莉―総特集 (KAWADE夢ムック)