【2607冊目】千葉雅也『ツイッター哲学 別のしかたで』
こういう「哲学」もアリなのか、と最初は驚いた。
断章形式で書かれた哲学書じたいは珍しくない。本書で紹介されているように、ニーチェもヴァレリーがそうだ。パスカル『パンセ』や、ひょっとするとモンテーニュ『エセー』のような「随想」にも近いだろうか。
ただ、それが「ツイッター」というフォーマットの中で展開されているとなると、やはりこれは前代未聞なのではないか。
本書は単純な時系列でははく、著者によって編集されているとのことだが、それでもなお、それぞれの「ツイート」があっちいったり、こっちいったり、深い思索からちょっとした気付きまで飛び飛びなのがおもしろい。たとえば、パラっと開いたところを見てみよう。57ページ。
「デリダの言う『純粋な贈与』には逆問題がある。純粋な贈与は、まったく交換にならない=顕在的にも潜在的にも『お返し』のない贈与だけど、他方で、そういう贈与を受けることの純粋さ、『贈与されて、顕在的にも潜在的にも恩義なしであること』について考えるというテーマ、これは論じるに値する」
「完全エネルギー切れのときは、メシを腹一杯食べないのが大事という経験則。復活が遅くなる」
「ひたすら無意味だけど、なんか気持ちいいもの、というのに反応し、そのことを言葉にし、語り合える人というのは、案外少ないものだ。しかし僕の生は、そこに基盤がある。意味があること、何かに貢献することに、僕の生の基盤はない」
この、とりとめがなく多様な3つのツイートが並んでいるという「無意味性」。その裏にあるのは、140字というツイッター自体の制約であり、個々のツイートが(連投というのはあるが)基本的にはずらずら並ぶだけという無機質性である。これはブログにもインスタにもない、ツイッター独特の要素だろう。
だから、普通に考えるとこういうものが「哲学」であるとはなかなか考えにくいのであるが、著者はむしろ、自覚的に、こうした「非意味的な有限性」の中からこそ生まれる何かを捉えようとしているように思える。ツイッターという制約を「活用」しようとしている、というか。
さらに、ツイッターは「孤独と共同性」のメディアでもある。一人一人の発信者は「孤独」だが、同時にそこには「つながり」が生まれ、場合によってはそれが「炎上」につながったりする。
本書はその「孤独」のほうに重点をおいているが、ことによると今後は、ここで起きる交わし合いという「共同性」のほうから、これからまた別のものが生まれるのかもしれない。それが対話篇のようになるのか、はたまたリゾーム的なものになるのかはわからないが。
いずれにせよ、今後の「ツイッター哲学」がどう変わっていくのか、楽しみだ。