【2313冊目】深田耕一郎『福祉と贈与』
福祉というもの、介護というものの本質について、どっぷり考えさせられた。今まで当たり前だと思っていた概念が、まったく別のものに見えてきた。本書は「そういう本」である。ただし、結論が著者と同じになるとはかぎらない。
この本は、新田勲という「全身性障害者」とのかかわりがベースになっている。著者自ら新田氏の介護を行い、介護に携わる者の話を聞き、新田氏の「運動」の軌跡を辿る。それは府中療育センターでの「闘争」に始まり、生活介護の他人介護料や東京都の重度脳性麻痺者介護人派遣事業の実現や拡大と、障害者福祉の先端を切り開く人生であった。
新田の人生や思考に触れる中で、著者が到達したのが「福祉とは贈与である」というものだ。贈与? それはおかしい、と思われたとしたら、おそらく現在の福祉制度のことをある程度知っている方だろう。介護保険にせよ障害者総合支援法にせよ、現在の福祉サービスは契約に基づいて提供されるもので、そのあり方を言い表すなら「贈与」ではなく「交換」ではないのか、と。
この「交換原理」に基づく福祉のあり方を主張したのが、本書でも紹介されている自立生活センター系の人々だった。彼らは介護をいわば商品化し、被介護者を消費者として位置づけた。それは、介護を「仕事として割り切る」ことによって、サービスの安定化と介護者の確保を可能にするものだった。
一方の「贈与」も、もちろん一方通行のものではない。というか、一方通行の贈与(いわゆる「ボランティア」や、親の子に対する介護などがあたるだろうか)は、被介護者に対する支配につながるため、望ましくないと考えられた。新田氏らの運動から著者が見出したのは、「相互贈与」であった。
この「相互贈与」が、実はなんとも分かりにくい。著者はこれを「移転の等価性を度外視した贈与を相互的におこないあう」(p.623)というが、そもそもそんなことが成り立つものなのか。むしろ交換に伴うドライで匿名的な介護を嫌い、ウェットで属人的なものとして介護を捉えることが主眼であり、そのために「贈与」という枠組を考えたとみるべきなのかもしれない。
実際、新田氏らが主張する「専従介護」は、人と人とのつながりが前提になければ成り立つことが難しい。これは介護者が基本的に(数名のローテーションとしてだが)固定化し、同じメンバーが介護を行うというものだ。例えば、新田氏は「足文字」という独自のコミュニケーション方法をもつが、これは新田氏の介護に熟練した者でないと読み取ることが難しく、結果として意思疎通が図れず、介護者として成り立たない。新田氏はこの足文字を官僚の目の前でやってみせ、「読めない」ことを認めさせることで、専従介護の必要性を説いたという。
実際、介護は単なる「商品労働」として割り切るには、いろいろ余剰物を抱え込んだ労働形態である。それは被介護者の自宅に上がり込み、食事から入浴、排泄の介助まで、その人自身のもっとも私的な部分に触れる行為なのだ。だが、だからといって介護者に高邁な理想と自己犠牲を求め続けたら、介護は制度として成り立たなくなってしまう。だから先ほどあげた自立生活センター系の人々は、あえて交換原理を全面に打ち出し、介護の「ウェットな」部分はあえて目をつぶってきたのであった。
新田氏や著者は、そうした部分をむしろ徹底的に直視し、そこから介護というものを組み立てていった。だから福祉は「贈与」であり、介護労働は「贈与労働」なのである。思うにこれは、福祉は贈与であるという「結論」が大事なのではない。サービスと化した「介護」からこぼれ落ちた本質を、矛盾から目をそらさず、丁寧にすくい上げる営みが重要なのである。