【1656冊目】九鬼周造『「いき」の構造』
- 作者: 九鬼周造,藤田正勝
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2003/12/11
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 19回
- この商品を含むブログ (45件) を見る
うすものを身にまとうことは「いき」である。無造作に浴衣を着た湯上り姿にも「いき」を感じる。でも裸体そのものは「いき」ではない。裸体はあくまで回想されるだけである。
ほっそりした柳腰は「いき」に通じる。顔は細おもて。目は流し眼や伏目がよいが、単なる色目だけでは「いき」にはならない。「眼が過去の潤いを想起させるだけの一種の光沢を帯び、瞳はかろらかな諦めと凛乎とした張りとを無言のうちに有力に語っていなければならぬ」のだ。化粧は薄化粧。髪型は略式で、平衡を破って軽妙に崩れたところに「垢抜」がある。
着方では、うしろ襟を引き下げて襟足を見せる「抜き衣紋」がよろしい。「衣紋の平衡を軽く崩し、異性に対して肌への通路をほのかに暗示する」ところが「いき」である。肩や胸部、背中を大きく露出する西洋のデコルテは、それに比べると野暮天であろう。
縞は縦のほうが横よりも「いき」だ。色は鼠色、青色、茶色。「いき」な建築は材料と構造の二元性と淡い採光を備え、「いき」な音楽は旋律やリズムが一元的な平衡を打破し、二元的な変位が緊張を生みつつ、その度合が下品にならない程度に抑えられている。
以上、枕草子ふうに列挙してみたが、もっとも、これらはあくまで「いき」の客観的表現である。それを「いき」と感じる主観的な美意識があって、初めてこれらは「いき」になる。では、その美意識とは何なのか。それを論理の言葉で扱うことはできるのか。本書は、ある意味哲学とはもっとも遠い「いき」というものを、あえて「哲学した」一冊だ。
もっとも、こうした「哲学する」行為自体、分析的に「いき」を捉えようとする行為そのものが、考えてみれば野暮の極みというべきなのだが、不思議なことに、本書はギリギリのところで「野暮」に堕することを免れているように思える。それは論理と分析の言葉で「いき」を捉えようとしつつも、それを越えたところに「いき」の本領を見ているからではないか。
「「いき」は個々の概念契機に分析することはできるが、逆に、分析された個々の概念契機をもって「いき」の存在を構成することはできない。「媚態」といい、「意気地」といい、「諦め」といい、これらの概念は「いき」の部分ではなくて契機に過ぎない。それ故に概念的契機の集合としての「いき」と、意味体験としての「いき」との間には、越えることのできない間隙がある。換言すれば、「いき」の論理的言表の潜勢性と現勢性との間には截然たる区別がある。我々が分析によって得た幾つかの抽象的概念契機を結合して「いき」の存在を構成しうるように考えるのは、既に意味体験としての「いき」をもっているからである」(p.148)
九鬼周造はここで「部分の集合=全体」という西洋哲学のロジックを捨ててかかっている。これが九鬼オリジナルの発想なのか、あるいは当時の西洋哲学にそういう思潮がすでにあったのかは分からないが、しかしそれよりも気になるのは、そもそも九鬼の言う「(我々が)既に意味体験としての「いき」をもっている」との部分が、果して現代にも言えるのか、ということだ。
九鬼によれば、「いき」の起源は「苦界」すなわち遊郭、遊女にある。「要するに「いき」は「浮かみもやらぬ、流れのうき身」という「苦界」にその起原をもっている」。だからこそそこには「媚態」がありつつも、それが本気の恋には至らぬ「諦め」があり、それでも金では男とは寝ない「意気地」があったのだ。「傾城は金でかふものにははらず、意気地にかゆるものとこころへべし」なのである。そしてまた「わしらがやうな勤めの身で、可愛と思ふ人もなし、思うて呉れるお客もまた、広い世界にないものぢやわいな」なのである。九鬼はこうも書いている。
「婀娜っぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯な熱い涙のほのかな痕跡を見詰めたときに、はじめて「いき」の真相を把握し得たのである」(p.46)
こんな場所が、今の日本のどこにあろうか。フーゾクやキャバクラ? だがそこに、「意気地」を張って冬でも裸足に下駄をつっかける遊女の気概は残っているか。九鬼は遊女を母にもち、二度目の妻にももった男である。遊郭は決して遠い世界ではなく、むしろ身近で切実な存在だった。しかし今や、遊女の気風など「逝きし世の面影」にすぎないのではなかろうか。
遊郭の是非はともかく、「いき」の感覚が、こうした長い歴史と文化の中で育まれてきたものであることは忘れてはならない。だがそれを失ってきたのも、本書が書かれた後の日本を襲った現実であろう。九鬼は「生きた哲学」として本書を書いたと言われる。だがこの平成の日本において「いき」を知ることは、失われた文化と習俗を追憶することになってしまうのかもしれない。