自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2010冊目】池田晶子『考える人 口伝西洋哲学史』

 

考える人―口伝(オラクル)西洋哲学史 (中公文庫)

考える人―口伝(オラクル)西洋哲学史 (中公文庫)

 

 
西洋哲学史だからといって、順序良く西洋哲学の「知識」が入ると思って読むと、思いっきり肩すかしを食わされる。だいたい、著者の考えでは、知識として哲学を「学ぶ」ことほど、哲学から遠いことはないのである。その言葉を借りるなら、哲学とは「学ぶもの」ではなく「おのずから生じてしまうもの」なのだ。あるものについて「これは何か」と問うことを独力で持続できるか。しかもそれは「意図的」であってはならない。意図によらずそんなことを考え続けることのできる「生理」こそが哲学なのだ、と言うのである。

だったらこんな「哲学史」を、著者はなぜ書こうと思ったのだろうか。おそらくそれは、本書に登場するようなケタ外れの「哲学病患者」たちの徹底した「考える」プロセスにこそ、哲学の発生があるからなのだ。哲学とは、歴史の流れでもなければ、そこに積み重ねられた知識ではない。それぞれの「哲学者」たちの思考が極点に達した瞬間に生じる、思考の立ち上がり、のようなものなのだ。だからこそ本書のタイトルは「考える人」なのだろう。哲学するとは、過去の蓄積を学ぶのではなく、同じようにトコトン徹底的に「考える」こと、自らも「考える人」になること、これしかないのである。

だからだろうか、本書はヘーゲルにはじまり、20世紀哲学から一挙に古代ギリシア哲学へ、そしてキリスト教哲学やら神秘主義やらデカルトやらを通過して「カント」で終る。ここでなんとなく歴史が一周したような感もあるが、まあいずれにせよ、そこにあるのは教科書的な「哲学の干物」ではなくて、池田晶子という「巫女」(彼女は哲学の巫女と呼ばれているとか、いないとか)の思考とペンを通して現出した、血の通った思考そのものなのである。

ちなみに私はウィトゲンシュタインが「発狂できなかった」というくだりが妙に面白かった。ニーチェの発狂は、言ってみればごく健常な発狂である。それは「意味」が毀れたことによる発狂であった。だがウィトゲンシュタインの場合は、意味がどうあれ「文法」は毀れようがないことに気づいてしまった。発狂もまた「文法内的事態」であるから、発狂してもウィトゲンシュタインはそこから逃れることさえできない。だからウィトゲンシュタインは、狂うことさえ許されなかったのである。