自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2568冊目】山内一也『ウイルスの世紀』

 

 

数十年にわたりエマージングウイルスを研究してきた著者による「集大成」の一冊。そこに新型コロナウイルスパンデミックが重なったことは、思えばなんという偶然か。もちろんのこと、本書にも全5章のうち第3章がまるまる新型コロナウイルスに充てられている。

エマージングウイルスとは、新興感染症のこと。20世紀後半、今まで人類が遭遇したことのない新たなウイルスが続々とあらわれた(エマージングとは「出現」という意味である)。凶悪なエボラウイルス、ラッサ熱を引き起こすラッサウイルス、ニューヨークで突然出現したウエストナイルウイルス、そしてSARS、MERS、COVID-19などで世界を騒がせるコロナウイルスは、いずれもエマージングウイルスだ。

エマージングウイルスの特徴は、動物によって保有され、それがヒトに感染すること。そのため、ほとんど人間にしか感染しない天然痘と違って、根絶は難しい。そして、どの動物がウイルスを運んでいるかを突き止めるのは大変な作業となる。オーストラリアに出現したヘンドラウイルスは、800キロ離れた場所で、ほぼ同時にウマへの感染を引き起こした。これほどの距離、ウイルスを持ち運べるのは鳥かコウモリしかいない。はたして、ダーウィンからメルボルンにかけて生息するコウモリを調べたところ、ヘンドラウイルス抗体が見つかった。ちなみに、コウモリは動物の中でも突出した「ウイルスの貯蔵庫」だという。哺乳類でありながら翼をもち、遠距離を移動するうえ、洞窟などのせまい場所に密集するため、ウイルスが爆発的にひろがりやすいのだ。

特定がむずかしく、そのため対策が迷走することもある。マレーシアでニパウイルスが流行し、大量のブタが犠牲となったうえ、ヒトへの感染も確認されたケースでは、政府はこれを日本脳炎によるものと判断した。日本脳炎は蚊によって媒介されるため、殺虫剤を散布し、ブタに日本脳炎ワクチンを注射した。ところが、皮肉なことにこの対策がかえってウイルスを広げてしまった。ブタの移動制限をとらなかったため、ブタの移動とともにウイルスが拡散した上、ブタへのワクチン注射で注射器が使い回され、注射針を介して感染を広めてしまったのだ。ヘンドラウイルスに似た新たなウイルスであり、日本脳炎ウイルスとは異なるという指摘はなされていたが、マレーシア政府は日本脳炎という「初診」に固執してしまい、適切な対策が取れなかったのだ。ちなみにこのニパウイルスでも、最初にブタにウイルスを感染させたのはコウモリであった。

新型コロナウイルスについても触れなければならないだろう。コロナウイルスは大きく4つのグループ(α、β、γ、δ)に分けられ、それぞれの中に多くの種類が存在する。ヒトに感染するのはそのうち7種(αグループの2種、βグループの5種)。4つは風邪を引き起こすウイルスだが、βグループの5種のうち3種はSARS、MERS、そして今回のCOVID-19(新型コロナウイルス)である。このウイルスを体内に保有しているのは、やはりのこと、コウモリだ。

問題は、コロナウイルスは一本鎖RNAウイルスであり、変異が起きやすいことだ。2本鎖DNAであれば変異が起きてももう一本の鎖が相補的に存在するため修復されやすいが、RNAだとそうした「コピーミス防止機能」が働かない。もっとも、コロナウイルスは不思議なことに、nspl4酵素という独自の修復システムを持っており、そのため、例えばインフルエンザウイルスのような頻繁な変異が起きるわけではないらしい。

コロナウイルスは、どのようにしてヒトに感染するのか。よくいわれているように、SARSやMERSと同様、そこには動物が介在している。SARSではコウモリからハクビシンを介し、MERSではコウモリからラクダを介してヒトに感染した。COVID-19では、疑わしいのはセンザンコウとされている。コウモリのもつRaTG13ウイルスがセンザンコウに感染し、そのときにセンザンコウのウイルスが組み込まれ、ヒトへの感染性を獲得したらしいのだ。中国ではセンザンコウは食用とされ、鱗は漢方薬に使われる。ちなみにマレーセンザンコウ絶滅危惧種であり、密輸されたものではないかと言われているようである。

なかなか厄介な話である。ハクビシンセンザンコウが売買される中国の状況にも問題はあるが、そもそも現代では、ほとんど国・地域を問わず、野生動物の生息地域にヒトが入りこみやすい状況が出来上がってしまっている。そうした状況では、動物が保有するウイルスを「もらって」しまうことは避けられないようにおもわれる。だからこそ21世紀は「ウイルスの世紀」なのだ。著者は言う。

新型コロナウイルスは、二十一世紀がウイルスとの共生の道をさぐる時代に入ったことを、われわれに見せつけているのである」(p.232)