【2536冊目】磯田道史『龍馬史』
- 作者:道史, 磯田
- 発売日: 2013/05/10
- メディア: 文庫
司馬遷が『史記』で創始した、紀伝体というスタイルがある。一人の人間に着目して、歴史を綴っていく手法だ。本書はいわば幕末版紀伝体。坂本龍馬という人物を描きつつ、龍馬というスコープから幕末史を見ていく一冊だ。
幕末はややこしい。さまざまな立場、さまざまな主張、さまざまな人物が複雑に絡み合って、全体をなかなか把握できない。ところが、ここに龍馬という軸を持たせることで、かえってすっきりといろんなことが見えてくる。特に、「藩」という括りで見ているだけではなかなか見えてこない、物流や交易の視点がおもしろい。たとえば、新式の銃の導入が幕府側に対する長州の勝利やその後の鳥羽伏見の戦いなどに影響しているのだが、その銃をもたらしたのが、藩を飛び越えて動き回るネットワーカー龍馬だった。
多くの志士が藩という枠の中で活躍していたのに対して、龍馬は早々に土佐を脱藩していた。さらに龍馬の出自は才谷屋という商家であり、龍馬自身も武士というより、商人として、物流や海運を通して活躍していた。そうしたネットワーカーとしての活動が、新式銃を長州にもたらしたのみならず、薩長連合のコーディネーターとして幕末史の転換を後押しし、ひいては大政奉還を導いたともいえる。
なお本書では、従来描かれていたあけっぴろげで人好きのする龍馬像に加えて、冷徹なネゴシエーターとしての龍馬像も描かれていておもしろい。たとえば海援隊が運用する「いろは丸」が紀州藩の船と衝突して沈没した事件では、実際には積んでいなかった巨額の現金を積んでいたとして賠償をふっかけ、藩の財政を傾かせるほどの巨額の賠償金をふんだくっているという。自己の利益になるとみれば徹底的に相手を追い込み、搾り取る交渉力があったからこそ、歴史を動かすような大きな交渉を次々に成功させていた、ともいえるだろう。龍馬ファンはがっかりするかもしれないが、やはり歴史に名を残すほどの人物は、一筋縄ではいかない複雑な多面性をもっているものなのである。