自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1819冊目】上原善広『日本の路地を旅する』

日本の路地を旅する (文春文庫)

日本の路地を旅する (文春文庫)

知らないでタイトルを見ると、なんだかお気楽な散歩ガイドみたいだが、そう思ってこの本を手に取るとかなりびっくりする。

本書にいう「路地」とは、つまりは「被差別部落」のことだ。そう呼んだのは中上健次だった。本書は、その中上の墓を著者が尋ねるくだりで始まる。

和歌山県新宮の、中上が「路地」と呼んだ地域は、こぎれいな住宅地になっていた。「ニコイチ(二戸一)」と呼ばれる、二世帯が壁で区切られた二階建て住宅が並んでいる。役所の職員によると、その様子を見て「がっかりして帰る人も多い」らしい。「小説を読むと、貧しい家々が建ち並ぶドロドロした印象を受ける」のに「今はきれいになっているから」だという。なんだか複雑な気分だ。

本書は、日本全国の「路地」を訪ね歩くルポルタージュだ。部外者の物見遊山ではない。著者自身、大阪更池の「路地」出身なのだ。したがって著者の旅は、各地の路地を訪ね歩くと同時に、そこに著者自身の故郷を重ね合わせるという、いわば著者自身のルーツを辿る試みにもなっている。

しかし、更池もそうだし、先ほどの新宮もそうだが、今や見た目で「路地」と分かるエリアはそう多くない。もちろん見るべきところを見ればわかるのだろうが、何も知らないで訪れれば、どこにでもある住宅地としか見えないだろう。そもそも、差別のこと、同和問題のことを知っている人もずいぶん減ったという。

では差別の問題は解消したのかと言えば、決してそうではないのが難しいところだ。事件が起きると真っ先に疑いの目を向けられる。結婚しようとすると身元を調べられ、相手の親や祖父母が反対してダメになる。土地を売ろうとしても買いたたかれる。本書には、路地に詳しい人物のこんな言葉が紹介されている。

「この現代に被差別部落があるかといわれれば、もうないといえるだろう。それは土地ではなく、人の心の中に生きているからだ。しかし一旦、事件など非日常的なことが起こると、途端に被差別部落は復活する。被差別部落というものは、人々の心の中にくすぶっている爆弾のようなものだ」(p.226)


著者の取材に対する「路地」の人々の反応もさまざまだ。そのことには触れないでくれ、とあからさまによそよそしい人。反対にそこが「路地」であることさえ知らなかったり、知っていても「いまさらそんなことは関係ない」とあっさり言い切れる人。

だが多くの人の語る「路地」は、上の発言のとおりの状況だ。表向きのあからさまな差別は減っても、何かがあるととたんに噴き出してくる。それは場所そのものというより、著者に言わせれば「地霊」のようなものなのだという。

地域別の事情もさまざまだ。中でも興味深いのは、全国の「路地」の往来と混淆についてのくだり。たとえば、東京におけるブランド牛といえば「近江牛」が多いが、その理由は、滋賀の路地の者が東京に移ってきたことと関係が深いという。

そもそも近江彦根藩は、牛肉食が一般的ではなかった江戸時代から、養生薬として牛肉の味噌漬けをつくっていた。なんと当時、牛の屠畜を「藩をあげて堂々と」行っていたのは彦根藩だけだったというからびっくりだ。その屠畜と食肉加工を請け負っていた人々が江戸にもやってきて、維新以降の牛肉食に大きく寄与したのだろう。

また、被差別部落への姿勢という点では、明治維新の原動力にもなった長州藩で、松下村塾吉田松陰にも学んだ吉田稔麿という人物が、欧米列強に対抗するため「屠勇隊」なる路地の人々からなる軍隊を構想したというエピソードが興味深い。「それぞれ100軒につき5人の割合で徴兵し、その功によりエタ非人の名を除いてやるべき」(p.148)と考えたという。

ここには不合理な身分制度にとらわれない、長州人らしい合理主義がよく現れているように思われる。ちなみに松陰も高杉晋作も、路地の者への差別感情はほとんどなかったようだ。

本書の終章では、著者は沖縄に渡る。ここでは著者自身の兄との邂逅が語られるのだが、その筆致はなんともせつなく、いたましい。大阪更池に生まれ育った著者の兄は、あろうことか小学生や中学生へのいたずらを繰り返して3年にわたり刑務所に入り、今は生地から逃げるようにして沖縄で暮らしているのである。

「私は思った。間違いなく兄は、どこかで曲がり角を違えただけの私なのだ、と。だから兄にはどうしても、西南の果てへなど逃げてきてほしくなかったのだ」(p.345)


どうして著者は、路地をめぐる旅の最後に、こんなことを書かなければならなかったのか。先ほど「事件が起きると路地の者が疑われる」と書いたが、著者の兄は、まさに路地の者であり、なおかつ実際に性犯罪を犯したのだ。ヘタをすれば偏見を助長しかねないようなことを、なぜ著者は書いたのか。いや、そもそも著者は、なぜ旅の最後に沖縄での兄との邂逅を選んだのか。

その理由は、正直言って分からない。だが著者にとってこの旅がきわめて個人的なものであり、その旅を終わらせるにあたっては、兄のことから逃げるワケにはいかなかったのだろう、ということはわかる。それほどまでに兄のことは、喉にささった小骨のように、著者の人生に突き刺さっていたのだろう。

しかも、このくだりを読んでいて思い出されるのは、ほかならぬ中上健次の兄が、首つり自殺で亡くなったことなのだ。いやはや……なんとも、やりきれない。