【1441冊目】司馬遼太郎『花神』
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イナカの村医者から、明治新政府の討幕軍総司令官へ。明治維新を「完成」させた男、村田蔵六の生涯を描く。
これはおもしろかった。たっぷりと堪能できた。今まで読んだ司馬遼太郎の本の中でベストの一冊かもしれない。
とにかく主人公の村田蔵六が変わっている。顔も「火吹達磨」と渾名されるほどの異相なのだが、もっとヘンなのはその性格。たとえば「お暑うございます」とあいさつをされると、こうなのだ。
「このとき、蔵六は立ちどまる。体をその野良百姓のほうへむけ
『暑中はあついのがあたりまえです』
と、こわい顔でいった。百姓はあきれたが、蔵六にすれば百姓の言いぐさこそおかしい。人間、言葉を発するときは意味のあることをいうべきで、すでに暑いとわかっているのになお言葉で説明して暑いというのは無用のことではないか、と蔵六はおもっている」(上巻p.143)
一事が万事、この調子。だから世渡りは下手なんてもんじゃない。というか、そもそも世渡り、出世というものにまったく関心がないのである。なのにその能力を買われ、蔵六はいろんなところに引っ張り出される。最初は宇和島藩で軍艦の建造に。次は幕府の洋学研究機関へ。そして長州藩の軍務大臣、さらには新政府軍の総司令官へ。
どんなところへ行っても蔵六は変わらない。こんなに変わらない人間がいるのか、と思えるほどに変わらないのだ。当然のように人付き合いは苦手で、酒の肴はいつも豆腐だけ。冷遇されればされたまま淡々と暮らし、金も名誉もまったく欲しがらない。
びっくりしたのは、長州軍を率いて幕府軍を蹴散らした後、村に戻る途中に婆さんに膏薬を頼まれ(村に戻れば新政府の総司令官といえどタダの村医者なのだ)、たった一人のために夜なべして調合をするくだり。おそらく蔵六にとって、幕府軍と戦って勝つことと、婆さん一人のために膏薬をつくることに、事の軽重はないのだろう。かなわない。
幕末にはいろんな人物が世に出たが、村田蔵六のようなタイプはちょっと見当たらない。合理主義で無愛想、一見すると人間味に欠けて冷たく見えるが、よく見れば、これほどまでに無私を貫き、引っ張り出されればどこででも働き、しかも結果を残した人物もまたほかにない。
さて、明治維新は、攘夷という、現実分析からすればきわめて非合理的なエネルギーに押されて成立した。福澤諭吉のような開明的な理性は、たいていの場合、多くの人の感情を惹き付けるところまではいかないものだ。人々を突き動かすのは、得てして単純で愚劣な排外的ナショナリズムのような「わかりやすい」考えである。
だがこの「攘夷」というエネルギーは、すぐれた人材を破壊するテロリズムの危険性を秘めた諸刃の剣でもあった。西郷隆盛や勝海舟ら、維新の英雄たちをひとしく悩ませたのが、この危険なエネルギーをどう扱うかという難題であったのだが、蔵六もまた同じだった。
合理的理性の権化であった蔵六は、攘夷のような不合理なエネルギーとは対極の存在であった。だからこそ、蔵六をいわば「ぶつける」ことで、攘夷とはなんだったのか、ということもまた明らかになってくる。つまり本書は、蔵六という希代の奇人を主役とすることで、幕末にこの国で起きた革命の本質をみごとに浮き彫りにして見せたのだ。
蔵六を通すことで、まるで空中から俯瞰するように、幕末の全体像が見えてくる。そして幕末を見通すことは、そこを起点に成立した近代国家としての日本を見ることでもあるのだ。本書のもうひとつの魅力は、幕末とは何だったのか、明治維新とは何だったのかをことこまかく明らかにし、ひいては今の日本の原型を知ることができるという点にあるといえるだろう。
おそらく蔵六のような人物は、平時であればその軍事的天才を死ぬまで眠らせたまま、一介の村医者で終わったことであろう。時代が蔵六を必要とし、歴史の表舞台にまで引っ張り上げたことは疑いない。しかし、蔵六自身にとって果してどちらが幸福だったかは、また別の話だ。もっとも、自分の幸福を追い求めることがついぞなかった蔵六は、どちらにあっても平然として、自分に求められるしごとを日々淡々と続けるだけなのかもしれないが……。