【2529冊目】島尾新『水墨画入門』
冒頭のカラー口絵に、まず息を呑む。郭熙「早春図」に牧谿「観音猿鶴図」、長谷川等伯「松林図屏風」に雪舟「冬景山水図」と、オールタイムベスト級の水墨画がずらりと並ぶ。西洋絵画ならダ=ヴィンチやミケランジェロからフェルメール、ゴッホにピカソが一堂に会しているようなものか。
ただ、水墨画と西洋絵画が大きく異なる点がある。もともと中国では「書画同源」、書と絵画は同じルーツをもっている。それは「筆で紙に線を引く」という「筆墨の文化」であった。本書によれば、最古の筆は紀元前三世紀のものが発掘され、墨は西周時代(前11世紀~771)、紙は少し遅れるが、それでも漢代のものが見つかっているというからものすごい。さらに中国の文字が「漢字」であったことも大きいだろう。筆をさらさらと走らせる「草書」は、なんとかっちりした「楷書」より先にあったという。
筆を走らせる「線のよろこび」。それは「書」において先駆し、のちにそれが「画」に発展したのが水墨画であった。したがって、そこには書のルーツがつねにたゆたっている。そのエッセンスのひとつが、本書にいう「心に得て手に応ず」であろう。「心の中のイメージが、そのまま画面に見えてきて、手が自然に反応し筆が動いて、墨を紙へと伝えてゆく」(p.88)。ここで心の中にあるイメージを「胸中の丘壑」というのだが、いずれにせよ、書や水墨画は、すぐれた内面の投影として評価されていくことになる。写実に重きを置いた近代西洋美術とは、かなり違うポジションに立っていることがわかる。
そうなってくると、単に技術にすぐれているだけでは画家として不十分、ということになる。高い教養と見識をもった「文人」こそがすぐれた描き手ということになってくるのだ。「古より画を善くする者は、衣冠貴冑、逸士高人に匪ざるは莫し」という言葉がある。素晴らしい画をえがくのは、王侯貴族や高位の官人そして在野の賢者たちだと言うのである(p.90)。特に宋代では、科挙を通過したいわゆる士大夫が文人画の担い手となった。
ちなみに、この点は科挙の導入されなかった日本では事情が大きく異なるようである。日本では、中国のように画を描く禅僧も少なく(有名なのは白隠くらいか)、むしろ職業画家が中心となった。このあたりは、日中の水墨画の違いにも影響しており興味深い。
少し理屈っぽい紹介が中心になってしまったが、本書はほかにも水墨画の楽しみ方や気になるエピソードをたくさん盛り込んでくれており、豊富な図版も含め、まさに水墨画を楽しむための入門書としてうってつけの一冊だ。個人的には、ジャクソン・ポロックを思わせるアクションペインティングが唐代の中国ですでに行われていたこと、青山杉雨や西川寧といったユニークな「書」が、いわば先祖返りのようにして登場していることに驚いた。杉雨の書など、古代中国で漢字の元型となった「金文」をモチーフとしており、現代作品でありながら古代の息吹を感じさせてくれる。