自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2049冊目】白洲正子『遊鬼 わが師わが友』

 

遊鬼―わが師わが友

遊鬼―わが師わが友

 

 
「幽鬼」ではない。「遊鬼」=遊ぶ鬼、遊びの鬼である。本書に登場する人々は、まさに人生を遊びぬいた達人ばかり。青山二郎小林秀雄、あるいは梅原龍三郎洲之内徹といった錚々たる面々に加え、井伏鱒二の小説のモデルになったという「珍品堂主人」秦秀雄、ある種天才的な染色作家の古澤万千子など、知らなかった人物の評がおもしろい。中でも気になったのが、書も絵も歌もこなす「現代の文人」早川幾忠。その才能もすばらしいが、そのいずれも専業とせず「素人」を貫き通したのも立派である。

そう、本書に登場する人々の多くが魅力的なのは、「素人」であるところなのだ。「玄人」「プロ」であることが評価され、もてはやされるというのは、専門家であるかどうかという点でしか人を評価できなくなっているということでもある。だがそれは、いわば鑑定書付きの名画や骨董ばかりをありがたがることに等しい。

白洲正子は、そこをあえて「素人」の目利きをしてみせる。そのためには、世間の評価に依らず、その人の作品や人物を見抜く眼力が必要だ。だが、かつてはそんな「素人」が文人と呼ばれたのだ。早川幾忠について書いた文章の中に、こんな一節がある。

「誰もかれも玄人の芸術家になりたがる御時世に、自から素人と断言する人を私は立派だと思う。いや、未熟なものが玄人面してのさばり返っている現実に、先生は業を煮やしていられるに違いない。それを「若気の至り」と呼んだのであろう。「文人」について、今まで私はあまり考えたことはなかったが、それというのも現代に文人がいなくなったせいもある。池大雅や浦上玉堂は、或いは三味線を弾き、琴をかなでながら、放浪の先々で詩を作り、画を遺した。一芸に達した人は、諸芸にも通ずる筈で、何も一筋の道にこだわる必要はあるまい」

本書に書かれた時代からさらに数十年を経た現在、果たしてこんな「素人」がいるだろうか。だいぶ卑近な例だが、例えばyoutubeで大金を稼ぐユーチューバ―など、ある意味「素人」かもしれない。だが、問題はそこに目利きがいないことなのだ。アクセス数だけが価値となってしまい、「文人」の眼が失われている。それではユーチューバ―は文化にはなりえない。