【2106冊目】木下長宏『自画像の思想史』
自画像一本で600頁以上という大著であるが、読んでみると、これだけのページ数が必要だと納得できる。むしろこれでも足りないくらいである。
第一に、ラスコーの壁画から忌野清志郎まで、文字通り古今東西の絵画史が、自画像という視点から綴られている。厳密に言えば、扱われているのは「西洋」と「日本」の2エリアが主だが、それでも読みごたえは十分すぎるほど。400点を超える図版が載っているのもありがたい。
そして第二に、自画像を通して「自己」と「他者」をめぐる思想史が、やはり古代から現代までを通貫して語られている。思想だからといって、哲学書ばかりじゃない。絵画もまた、その時代の思想を映す鏡なのだ。特に西洋近代から現代までの「自己-他者」をめぐる思想史が文字通り一目瞭然となっている。
自画像とは、そもそも何なのか。自画像なのだから「自己」を描いたものと思われがちだが、実は「絵画」としてカンヴァスに描かれた時点で、それは「他者」によって眺められた自己になる。いや、そもそも私たちが「自己」を考えるとき、それは「他者によって眺められた自己」なのだ。そのとき「自己を眺める自分」は、実は他者になっているのである。
ややこしい話であるが、つまるところ「自己」と「他者」はどこか重なり合うのであって、自己とは他者がいてはじめて成り立つものなのである。自画像を描くとは、まさにその境界線上に立つ行為なのであり、わたしたちが「自己」を見つめる際の作業を外在化しているということなのだ。
だが、思うのだが、そうやって「他者の目」で自己を描いたとしても、そこには描いた本人=自分というものが、どうやってもにじみ出てしまうのではないだろうか。絵画(あるいは芸術全般)全般に言えることだと思うが、描いたものが何であれ、そこには「自己」そのものもまた投影される。つまり自画像とは、他者の目で描かれた自己であって、しかもそこに「描いた者」としての自己そのものが映し出されるという、自己・他者の多重投影物なのである。
そして、西洋近代が「自己」と「他者」を分離し、それゆえ近代人としての苦悩の中にあったとすれば、そこを飄々と乗り越えているように見えるのが、江戸時代までの日本の「自画像」であった。それは「見立て」によって他の役割や事物に重ね合わされた自己であり、俳諧の軽みのなかで自己も他者もない心境に至った自分なのだ。その意味では、むしろ明治以降の日本人のほうが、西洋に遅れて「自己」の悩みを抱くようになり、デカルト的な二分論の苦悩を持つようになった。そんなことも、本書に採録されている自画像を眺めれば一目でわかる。
まあ、そんな小難しい理屈に付き合いながら読むのもひとつだが、解説は横目にしつつ古今東西の自画像をひたすら眺めるのも本書の読み方として「アリ」だろう。実際、自画像になんと多くのヴァリエーションがあり、なんと見事に時代や社会の精神が投影されていることか。
自画像の源流である、画の中の登場人物としての自己の姿(ミケランジェロは「最後の審判」の中で、「生皮を剥がされた聖バルトロマイ」の中に自分の顔を隠した)。鏡の中に映る自己という自画像の「原理」を逆手に取り、凸面鏡に映った自己を描いたパルミジャニーノ、自画像の背後に独特の渦巻きを配したゴッホ、自画像を描く自分自身をユーモラスに描いたロックウェル、自分のスーツをハンガーに吊るして「自画像」と題したヨーゼフ・ボイス。日本では、自己を漫画化した北斎の絵、筆をさらりと走らせたような、自己への執着を微塵も感じさせない良寛や仙厓。過去・現在・未来を一枚の絵に封じ込めた宮崎友禅斎。それが明治になると、長谷川昇や萬鐡五郎など、突然重厚で西洋近代風の自画像が出てくる。
サインだけの自画像、オブジェを並べただけの自画像など、とんでもない作品もたくさんあって、とにかく図版を見ているだけで飽きない一冊。読み終えて考え込んでしまったのは、自分だったらどんなふうに「自画像」を描くだろうか、ということだった。