自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2521冊目】荒井裕樹『障害者差別を問いなおす』

  

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『障害と文学』『差別されている自覚はあるか』など、先鋭的な視点で日本の障害者運動や障害者差別の歴史を追い続けてきた著者による、本気の「障害者差別論」。とはいえ、精神障害者知的障害者への差別のこと、障害者権利条約や障害者差別解消法のこと等については少し触れられているだけで、著者自身が「あとがき」で言うように、メインで取り上げられているのは身体障害者、それも脳性マヒ者の団体「青い芝の会」による運動の歴史なのだ。

総花的にならず、あえて一点突破を狙ったものと言えるだろうが、その試みは十分に成功しているように思う。まず、対象を絞って深く論じたことで、テーマが明確になった。さらに、障害者運動の中でももっとも苛烈で先進的な「青い芝の会」を取り上げたことで、運動の最前線と、それでも埋まらない社会の側の「差別」の構造が浮き彫りになった。そして、青い芝の会を扱うことで、結果的に施設収容の問題から社会参加の問題(川崎バス闘争は移動手段の保障の問題であり、すなわち社会参加の問題だった)、さらには出生前診断や優生思想、優生保護法の問題など、幅広くしかも本質的なテーマを扱うことができた。

そして、何より「青い芝の会」のテーゼが、何度読んでも強烈だ。「われらは愛と正義を否定する」「われらは問題解決の途を選ばない」など、世界中を見渡したって、ここまで過激で本質的な主張を展開した運動者はいないだろう。「われらは問題解決の途を選ばない」なんて、BLACK LIVES MATTERのテーゼにしてもいいくらいだ。

そして、こうした闘いの歴史から見えてくる「差別」の正体とは何か。ここで重要になってくるのが、「マジョリティ」と「マイノリティ」をめぐる考察だ。ここでマジョリティとは、単なる「多数派」ではない。著者の言い方に倣えば、それは「社会」や「国」や「人間」と自分を同一視できる存在である。マジョリティに属する人々にとって、差別とは「ほかの人に対して起きている問題」であって、「切実な当事者意識を持たずにやり過ごすことができる」程度のものなのだ。

「マイノリティ」にとってはそうではない。マイノリティにとって、社会や国家とは自分をはじき出し、排除し、疎外するかもしれない存在であり、到底自分と同一視できるものではない。マイノリティにとって、差別とは「自分という個人」に降りかかってくる出来事だ。「買い物に行く、学校に行く、部屋を借りる、銀行口座を作る、誰かを好きになる、その人と共に暮らしたいと思う等々、暮らしの至るところで「他ならぬこの私」に降りかかってくる問題」(p.95)なのである。

この「マジョリティ」と「マイノリティ」の意識の落差が、差別をめぐる議論にすれ違いを生む。たとえば「車椅子のまま一人でバスに乗る」ことが、長らくこの国では認められてこなかった。いや、つい数年前にも、バニラ・エア社の飛行機に乗ろうとした車椅子利用者が、車椅子を降りて搭乗するよう求められ、腕の力でタラップをあがらざるを得なくなるという「事件」があった。その際にSNSなどで、この利用者に対して「ルールを守れ」といった批判が寄せられたという。

この「ルールを守れ」という発言は、典型的な「マジョリティの言葉」ではないだろうか。発言者はおそらく、差別をしているつもりはないだろう。ただ障害者にも、それ以外の人と同じルールを適用すべきだ、と主張しているにすぎない。だが、実はこれこそが「差別」なのである。マジョリティを対象とした「ルール」に従う以上、障害者は飛行機からもバスからも排除されることになる。そのことは、マイノリティである当事者から見れば明らかなのだが、マジョリティは得てして、こうしたことに対する意識が鈍感になってしまう。

青い芝の会は、障害者ではない人を「健全者」という言葉を使って呼んだ。著者はこの言葉について「『健全者』は、障害者から『健全者』と呼びかけられたその瞬間から、障害者差別に対して、第三者的な位置や傍観者的な位置にいることを許されなく」(p.96)なると指摘する。これはまさに、マジョリティという安全なエリアからそこにいる人を引きずり出し、「障害者」と対峙させる、言い換えれば当事者とするためのマジックワードなのである。この社会は「障害者」と「健全者」という2種類の当事者がいるだけなのだ。そこには観客席も、批評家も必要ない。差別をめぐるすべての議論は、ここから始めなければならないのである。