【2218冊目】荒井裕樹『障害と文学』
「似たような境遇にある者たちと個々の心情を綴り合うことは、単に仲間との関係性を構築するばかりではなく、独自のニーズを有する障害者としての自己形成を図り、社会における自己の役割や位置について模索することでもあったのである。このような綴り合う関係性の中で、日本の障害者運動の芽は温められてきたのである」(p.14-15)
タイトルをみて「文学における障害の描き方」が書かれているのかと思ったら、そうではなかった。本書が扱っているのは「障害者が綴る文学」。それも脳性麻痺者の花田春兆が主宰した「しののめ」と、やはり脳性麻痺者で日本の障害者運動を牽引した横田弘が所属した「青い芝の会」の2つだけがメインで扱われている。その意味で、タイトルはミスリーディングとまではいわないが、ちょっと広げすぎのような気がする。むしろ内容に即してタイトルをつけるなら「障害者運動と文学」だろうか。
それほどに、本書は主に戦後の障害者運動史が中心となっていて、文学はどちらかというとその軌跡を辿るにあたっての「補助線」あるいは「例示」に近い扱いになっている。だがそれは、ある意味では、障害当事者による文学が、障害者の置かれた状況を告発し、そのあるべき姿を描こうとしたものであった、ということでもある。
それは例えば、近現代の朝鮮文学や社会主義陣営下の東欧文学の多くが政治的状況と不即不離であったことや、黒人文学が黒人差別の告発にもなっていたことを思わせる。だが一方では、本書で取り上げられている「障害者による文学」は、少なくとも本書から読み取れる限りでは、たとえばハンセン病患者であった北条民雄や明石海人の文学ほどの洗練と高みにまでは、残念ながら到達しなかったようにも思われるのである。
むしろ本書でもっともスリリングだったのは、「安楽死」をめぐる熾烈な論争だった。そもそも障害者による文芸同人誌「しののめ」が安楽死を正面から取り上げて議論していることにギョッとした。中には、自己選択による安楽死を肯定する発言も少なくなかったという。一方、当然のことながら、外部の非当事者による安楽死肯定論に対しては、一様に激しく反発し、批判している。
こんなことが1960年代に議論されていたことに驚くが、だが考えてみれば、例えば出生前診断はこれとは無関係と言えるだろうか。生命の自己決定という問題に関して、私たちの認識はどれほど進んだだろうか。「障害と文学」をめぐる現状は、いったいどうなっているだろうか。