自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1968冊目】横田弘『障害者殺しの思想』

 

障害者殺しの思想

障害者殺しの思想

 

 

1979年刊行の「名著」が、増補の上新訂されたことを、まずは喜びたい。

さて。 

「はっきり言おう。
 障害者児は生きてはいけないのである。
 障害者児は殺されなければならないのである。
 そして、その加害者は自殺しなければならないのである。」(本書より引用)

本書を読むには、覚悟が必要だ。本書に並ぶ言葉は、すべての「健全者」に向けられた銃弾であり、砲列である。この世の中の制度も、慣習も、道路や建物のようなハードウェアも、すべてが「健全者」の都合のよいようにつくられている。そして「わたし」は、そのことを無自覚に享受している。それ自体の欺瞞と怠慢を、本書の著者、横田弘はするどく読み手に突きつける。

重度の脳性マヒを持った子どもが、行く末を悲観した母親によって殺されるという事件が起きた。母親に同情した人々が、その減刑を嘆願した。そのことを強く批判したのが、著者の属している脳性マヒ(CP)者の当事者団体である「青い芝の会」であった。

CP者を殺した親を許すということは、CP者は殺されてもよいということになる。そんなことは断じて許せない、というのが、当事者である青い芝の会の、決してゆるがせにできない立脚点であった。減刑嘆願運動を起こした「健全者」にとって、この事件は加害者である親にとっての悲劇であった。だが、そこには殺害されたCP者の視点が抜け落ちていることを、彼らは鋭く突いていく。さらに言えば、CP者の子どもの親を追い込んだのは、そのような「善意の健全者」たちなのだと、著者は言うのだ。

「殺された季子ちゃんが日向ぼっこをしている時、夜中に泣き出して加害者が季子ちゃんを背負って玄関の前を行き来している時、誰か一言でも声をかけただろうか。
 若い母親にムチを打ったのは一体誰なのだ。
 私たちは加害者である母親を責めることよりも、むしろ加害者をそこまで追い込んでいった人びとの意識と、それによって生み出された状況をこそ問題にしているのだ。
 事件が起きてから減刑運動を始める、そして、それがあたかも善いことであるのかの如くふるまう。なぜその前に障害児とその母親が穏やかな生活を送れるような温かい態度がとれなかったのだろう。私たちが一番恐ろしいのは、そうした地域の人びとのもつエゴイズムなのである」(本書より引用)

こうしてあの苛烈きわまりない「行動宣言」が登場するのである。今にしてみれば、これこそCP者の、いや、障害者すべての、健全者社会に対する宣戦布告であった。以前も取り上げたことがあるが、あらためてここに引用しておきたい。

1 われらは自らがCP者であることを自覚する

2 われらは強烈な自己主張を行う

3 われらは愛と正義を否定する

4 われらは問題解決の路を選ばない

革命的といえば、これほど革命的なテーゼはない。健全者によってつくられた制度、社会、慣習を、これほど根底から否定した言葉はない。永遠に少数者でいなければならないことが、CP者、あるいは障害者すべての宿命である。だからこそ、彼らはこれほどまでに尖鋭的に戦いつづけなければならない。

本書には横田弘のライフヒストリーに加え、「青い芝の会」の戦いの軌跡が、行政との折衝も含めなまなましく描写されている。優生保護法、バス乗車拒否、養護学校義務化と、とにかく闘争の種は尽きない。その中でまったく揺らぐことなく、「CP者である」という自らの立場をもってあらゆる問題に対峙する彼らの姿には、いっそ感動さえ覚える。おそらく、当事者であることの切実さこそ、彼らの活動の最大の武器であったのだ。それに応じるだけの言葉を、「わたし」は果たしてもっているだろうか。