自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【本以外】映画『コリーニ事件』を観てきました

   

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久々の映画リポート。というか、そもそも映画館で映画を観ること自体が久しぶり。これまで当たり前にやっていたことのありがたみを感じる。客と客の間に空席を2つずつという「コロナ対応モード」は、映画館の収益上のダメージは大きいだろうが、観る側としてはむしろ快適。隣でいびきをかいたり、ビニール袋をガサガサさせてお菓子を食べながら映画を観るオジサン(これ、どちらも体験済みです)と隣り合わなくて済むからね。

 

さて、本作はドイツの弁護士作家フェルディナンド・フォン・シーラッハの長編小説が原作となっている。原作もだいぶ前に読んでいたが、一度さらっと読んだだけにも関わらず、けっこう細部まで覚えていたことに驚いた。それほどに強烈で、忘れがたい読書体験だったのだ(この「読書ノート」にも書いたと思っていたが、過去記事に出てこないのでどうやら勘違いだったらしい)。

 

ホテルのスイートルームでハンス・マイヤーという会社社長が射殺される。犯人のコリーニはすぐに自首するが、取り調べでは黙秘し、国選弁護人となったライネンにも何も話さない。この新米弁護士ライネンが本作の主人公である。

 

弁護を引き受けた後にマイヤーが自分の親友の祖父であり、自分も世話になった人だと気付くライネン。その状況で被疑者の弁護を引き受けるのは弁護士的にどうなんだろうと思うが、作者のシーラッハも弁護士であるから、まあ、これもありうることなのだろう。黙するコリーニに手を焼くライネンだが、「お父上は元気かね?」という、コリーニのふと漏らした言葉をヒントに、ライネンはコリーニの、そしてマイヤーの過去に迫っていく。そこに見えてきた、二人の驚くべきつながりとは・・・

 

このあたりですでにネタバレになりそうなのだが、本作のキモはこの先にある。なぜコリーニはマイヤーを殺さなければならなかったのか? そこには、ドイツのもっているある「法律」の問題があったのだ。ここで、物語全体に恐ろしい逆転が起きる。裁判とは、「国家」が「個人」を裁く場である。だが、この法律の存在が明らかになった瞬間、この裁判は「国家」そのものを裁く場になってしまうのだ。

 

未読であってもカンの良い方なら気付くだろうが、本作はドイツの歴史を問う物語である。そして同時に、ドイツの「現在」を鋭く問う作品でもあるのである。過去は過去で完結しない。だからこそ、コリーニはマイヤーを殺すことで、過去を現在によみがえらせることを強いられてしまったのだ。

 

本作に勝者はいない。コリーニも、ライネンも、裁判官も、検察官も、誰もが敗北し、打ちひしがれるようになり、そして最後の最後、思いがけない出来事によって、突然に幕がおろされるのだ。

 

やるせない結末。だが、他にどんな結末があり得たというのだろうか。わずかな救いは、シーラッハの作品がきっかけとなり、ドイツ連邦法務省が「過去再検討委員会」を設置したということだ。物語の内部に救いを用意しないことで、現実の世に救いを導くという、とてつもない小説的偉業を、シーラッハは行ったことになる。

 

久々の映画として堪能するには、なんとも重く、せつない映画。だが、ドイツと似たような歴史的経緯をもつ日本においてこそ、これはしっかりと観られるべき作品である。

 


ドイツで記録的ヒット!『コリーニ事件』予告編