【2064冊目】シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』
パリの高等師範学校を出て、哲学教師となったヴェイユ。哲学者でもあって左翼運動の闘士でもあった彼女が、25歳のある日、とつぜん1年間の休職を願い出た。ある工場に一人の女工として「就職」したのである。
本書は、そうして飛び込んだ工場での日々の記録である。そこに展開されているのは、決してものめずらしい風景ではない。機械の部品のようになって働く労働環境も、そこで人間性が疲弊し、すり減っていくありさまも、私自身を含め、多かれ少なかれほとんどの労働者が経験していることだ。
とはいえ、そんな当たり前の光景が、ヴェイユにかかると一変する。当然だと思っていた状況が、実はきわめて非人間的であり、労働者の人間性を損なうものであるかということが、歴然と見えてくるのである。それは自分の人生の時間を文字通り「部品を1時間に600個つくる」ことに振り向けていることの意味であり、その時間がわずかな金銭に替えられていることの意味である。
「こういう生活がもたらすもっともつよい誘惑に、わたしもまた、ほとんどうちかつことができないようになった。それは、もはや考えることをしないという誘惑である。それだけが苦しまずにすむ、ただ一つの、唯一の方法なのだ」
これは、マルクスがいう意味での「疎外」そのものなのだろうか。そうかもしれない。が、それ以上の、人生を生きるということの本源的な意味にまで、ヴェイユの思索は届いているように思われる。
「ところで、わたしが何とかならないかと思っていることは、こういうすべてのことがどうしたら人間的になるかということよ」
「たましいに及ぼす隷属の影響」
生きるためには食べていかなければならない。そのためには働かなければならないし、機械の一部となるような環境でも耐え忍ばなければならない。たしかにそれはそのとおりなのかもしれないが、ではその無味乾燥な労働時間は、生きている時間には入らないのだろうか。ヴェイユが突きつけている問いのひとつは、まさにここにあるように思われる。
「生きるため」の手段としての労働も、生きている時間の一部であるはずなのに、生きることの外側におかれてしまっている。
ヴェイユが1年間の労働生活で直面したのは、まさにこのことであったのではないか。
「人間の生活において何より大切なことは、何年もの間―何ヵ月でも、あるいは何日間でも同じことだが―生活の上に重くのしかかってくるいろいろな出来事ではない。今の一分間が次の一分間にどんなふうにつながっているかというつながり方が大切なのである。そして、一分また一分と、このつながりを実現して行くために、―各人のからだと心とたましいにおいて、―何よりも注意力の訓練において、どれだけの努力がついやされたかが大切なことなのである」
日本の「哲学学者」とは違う、ホンモノの哲学者の筋金がここにある。自らの意思と経験と思索がひとつながりのものとなっている。ヴェイユの本ははじめて読んだが、これはホンモノだ。ほかの本も読んでみたい。