【2045冊目】阿部志郎『福祉の哲学』
哲学、と言われるとなんだかとても難しそうなことが書かれていそうで構えてしまうが、決してそんなことはない。むしろ著者の実践や教育の日々から生まれてきた、地に足の着いた言葉が並んでいる。いわゆる系統的な思想としての「哲学」を期待して読むと、肩透かしを食うかもしれない(「人生哲学」とかの「哲学」に近い)。
しかし、なぜ「福祉の哲学」なのか。そこには、福祉の現場から見て、既存の「哲学」がいかに無力であるか、という認識がある。
本書は、ハンセン病患者の病院である神山復生病院と、その院長を務めた岩下壮一の話から始まる。東大で哲学を学び首席で卒業した岩下は、大方の期待を裏切るようにしてハンセン病医療の道に飛び込むのだが、そこで死にゆく患者を前にしてこんな言葉を発するのだ。
「私はその晩、プラトンもアリストテレスもカントもヘーゲルも、みなストーブのなかに叩きこんで焼いてしまいたかった。原罪なくしてらい病が説明できるか」(らい病とはハンセン病のこと。また、岩下はクリスチャンだった)
「生きた哲学は、現実を理解しうるものでなくてはならぬと哲学はいう。それならば、すべてのイズムは、顕微鏡裡の一らい菌の前にことごとく瓦解するのである」
この言葉こそ本書の出発点にふさわしい。哲学の本来のありようと、福祉の現場で求められている哲学のありようが案外近いところにあり、一方で、いわゆる学問としての哲学が、そこからなんと遠いところにあることか。そのことをこの2つのセリフは端的に突きつけてくる。そして、著者はこの岩下の言行を切り口に、「福祉の哲学」への思いをめぐらせていく。それは「机上の理屈や観念ではなく、ニードに直面する人の苦しみを共有し、悩みを分かち合いながら、その人びとのもつ「呻き」への応答として深い思索を生み出す努力」であった。
ここから、なぜ福祉に「哲学」が必要なのかという、肝心なところもまた見えてくる。福祉というものが根本的なところで人の人生に関わることであり、言い換えれば「何のために人は生きるのか」ということが、福祉には必ずかかわってくるからなのだ。しかもその根源的で重い問いは、「哲学者」ではなく、一人のワーカーや看護師らの肩にのしかかってくるのである。
例えば、重度の障害者が「地域で生きる」とはどういうことか。あるいは、苦しむ患者に安楽死を認めるかどうか。あるいは、支援を拒否するDV被害者の「自己決定」をどこまで尊重し、どうやってそこに介入していくか……。
だが、くどいようだが、これこそが「哲学」なのである。哲学とは本来、こうした問いに関わるべきものであるはずなのだ。本書はそのための「問いかけ」の作業の集成であって、著者なりの回答のラフスケッチである。本書に書かれているのは著者自身の回答であり、それ以上のものではない。だが、それはそれでよいのだろう。さまざまな実践や書籍から、福祉に関わる一人ひとりがそれぞれの哲学を胸に、現場に臨めばよいことなのだから。
それでも、さまざまなヒントは本書にもちりばめられている。例えば「卒啄同時」(卒は口ヘン)。ヒナが孵るとき、親鳥が卵の殻を外からつつき、同時にヒナが内からつつく。これこそが「機が熟した」ということであって、この機を捉えれば、例えばケースワーカーの働きかけとクライエントの思いが合致し、新たな展開が起こる(著者はそういう意味で言っているのではないかもしれないが、私はこのように理解した)。支援拒否や支援の押し付けを考えるとき、この考え方はひとつのポイントになりそうだ。
「福祉は、家計に占める食費に相当する」という指摘もおもしろい。福祉を切り詰めると、食費を切り詰めたときのように、徐々に社会の体質(体力)が低下する。この場合の福祉とは、単に国家や地方自治体の予算に占める福祉費というだけではなく、地域福祉、ボランティア、相互扶助といったコミュニティの力も含めたものである。考えてみれば、今の日本で起きているいろいろな出来事もまた、社会の体力低下の兆候なのかもしれない。だから著者は、ヨーロッパ型の近代コミュニティを真似しようとするのではなく、アジアの共同体にみられる互酬性を見直すべきだと主張する。
個人的に気になる部分はあったものの、読んでみて自分の実践に対するヒントをもらうには良い一冊だと思う。福祉とは人間の生き方そのものに関わることがらであり、人間の生を支えるのに公も共も私もないのである。