【2067冊目】シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと』
今後、何度も読み返すことになるであろう一冊。今回はご挨拶代わりに、全体をさっと一読しただけ。それでもけっこう時間がかかった。歯ごたえがある。
再読、再再読で印象はどんどん変わってくると思うのだが、今の時点の印象では、「根こぎ」「根をもつ」というフレーズが強烈だった。人間はどこかに根をもっている必要がある。だが今や、どこでも人間存在そのものが根こぎにされている。労働からも、国家からも、社会からも……。
人は、自分ひとりでは生きられない。必ずやどこかに身を置き、そこに身を預けなければ、生きていくこと自体が務まらない。だが、この「預ける」というのが難しい。しかもヴェイユは、一か所ではなく複数の土壌に根を張るべきだという。
だが、そんな土壌が今や(といっても1940年頃)失われつつある。それも国家によって。「国家は冷たい存在で愛の対象たりえない。その一方で、愛の対象たりうるいっさいを抹殺し解消する。かくてわれわれは国家を愛せよと強いられる。ほかになにも存在しないから。これこそ現代人に課された精神的な呵責である」
今の日本でも、あてはまりそうな部分は多い。かつて多くのサラリーマンが根をもっていた会社は、不況となると容赦なくリストラを行うことがわかってしまった。地域のコミュニティも崩壊しており、他によって立つべき信仰もない。非正規雇用の若者であれば、なおさらだ。
そもそも、日本は過去に大規模な「根こぎ」を経験している。国家もろともの根こぎである。こんな一節がある。
「征服した国を同化したとフランスの諸王が讃えられるとき、その実態はほかならぬ諸王がこれらの国を大々的に根こぎにしたということだ。根こぎはだれにでも使える安直な同化手段である。自分の文化を奪われた人びとは文化なしでとどまるか、征服者がありがたく恵んでくれる文化の断片をうけとるか、そのいずれかである」
下巻の「根づき」と題された章では、科学中心主義や人間中心主義が厳しく退けられ、信仰の問題が大きく取り上げられる。キリスト教をベースにした内容だが、それでも老子のフレーズやインドの説話などが不意に挿入されるのがやや意外。「根こぎ」「根づき」との直接の関係ははっきり判読できなかったが、おそらくはそこに向かって身を預けろ、ということだろうか。次のフレーズが特に印象に残った。
「地上を支配するのは限定であり限界である。永遠なる叡智はこの宇宙をひとつの網目、もろもろの限定の網のなかに閉じこめる。宇宙はそのなかで暴れたりはしない。物質の粗野な力はわれわれには支配者のごとくみえるが、実態としてはまったき従順以外のなにものでもない」
では、人間は自らの判断や思考を捨てて神=永遠なる叡智に身を預けよ、ということなのかと思いきや、最後に突然「思考」の優位性が強調されるのでちょっと戸惑う。
「地上における諸力は至上権を行使する必然によって決定される。必然はそれぞれが思考にほかならぬ種々の関係性により構成される。つまり地上における至上の支配者たる力は、思考によってみごとに支配されるのだ。人間は思考する被造物である。よって力に命令をくだすものの側にいる」
もっとも、ここでいう「思考」は私的な思考であってはならない、ともヴェイユは言う。それは「真の注意力の効能によって魂をからっぽにして、永遠なる叡智が思考をみたすままにしておくなら、すべては変わる。そのとき、力を服従させる思考そのものを自身のうちに宿すことになろう」というような類の「思考」なのだ。
こうなってくると自即他、融通無碍、あたかも自分自身に神が流入して思考をもたらすというものになってきて、これは思考を超えているようにも思う。仏教にいう縁起のようなものに近いのだろうか。西洋の思想家ながらどこか東洋的で、しかし一本芯のとおった哲学者ヴェイユの、遺言のような大著である。