自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1797冊目】向谷地生良『技法以前』

技法以前―べてるの家のつくりかた (シリーズ ケアをひらく)

技法以前―べてるの家のつくりかた (シリーズ ケアをひらく)

「障害者をめぐる20冊」19冊目。

副題は「べてるの家のつくりかた」。知る人ぞ知る「規格外」の福祉施設べてるの家を生んだ著者が、独特の方法論の背後にある思考を語る一冊だ。

べてるの家」は精神障害者の集う地域拠点である。そのため、本書に書かれている内容も精神障害者、特に統合失調症の事例が中心だ。だから本書の内容をそのまま誰にでも適用できるワケではない……が、それを差し引いても、本書には人間の心というもの、あるいは病気ということ、生きるということについての、驚くべき深い知見があふれている。

著者は、精神障害を抱えるということは「自分の苦労の主人公になるチャンスを奪われる」ことであるという。統合失調症についていえば、自分の感知する世界と周囲の人間にとっての世界にギャップが生じ、そこからさまざまな人間関係のあつれきが生じる。それを防ぐために、当事者(と本書では呼ぶ)は人と会わないようになり、人とのつながりが断たれていく。

「このようにしてできてしまった自分と周囲とのあいだの溝を破壊し、人とのつながりという命綱を確保する緊急避難的な自己対処として、彼らは爆発という手段に頼らざるを得なくなっていく。しかし爆発行為はさらなる周囲の管理と保護を強め、他者の管理と支配に身を委ねる生活へと当事者を貶めていく」(p.38)


著者の方法論のほとんどは、この「苦労を取り戻す」「人とつながる」の2点を軸に展開している。「苦労を取り戻す」で言えば、当事者への著者のアプローチが面白い。著者はその人の抱える苦労そのものではなく、一般には問題行動と言われるような行動によって「自分を助けようとする自分」に着目するのだ。

しかもそこで提唱するのは「自分の助け方の研究」である。「同じような経験をしている仲間のために、その人の苦労についてみんなの前でしゃべってもらう」のだ。これがべてる名物の「当事者研究」、障害をもつ当事者が自分で自分のことを研究し、発表するという方法論の根本である。

ここで先ほどのもうひとつのポイント「人とつながる」が実現する。著者はソーシャルワーカーであるが、決して自分と当事者の一対一の関係に終始しない。べてるの家でも、当事者とスタッフの関係(これを著者は"お姫様だっこ"型の聴き方という)に「仲間がダイナミックに"割り込んでくる"」という。

これを著者は《開かれた聴き方》と呼ぶ(それに比べて、前者は《閉じた聴き方》だ)。そして、とりわけ統合失調症をもつ当事者においては、《開かれた聴き方》が重要になってくるというのだ。なぜなら「「聴く」という行為は、主として感情に焦点が当たり充足感が得られるのに対して、統合失調症をもつ当事者の抱える危機の本質は、存在そのものにある」(p.110)からだ。

このあたりは統合失調症プロパーの内容だが、実際にはアルコール依存やギャンブル依存などで「当事者団体」が多く存在し、活動しているのはご存知の通り。もちろんその活動内容がすべてこうした考え方に立脚しているわけではないだろうが、それでも本書にいう「聴くことの共同性」と、それを通じて得られる「より身体的な実感」の重要性は、案外射程の広いメソッドであるように思われる。

こうした方向性の行く末には「多様な人とのつながりの場」へと解き放たれていく当事者の姿がある。そこにいるのは「良い人」ばかりではない。多様性のもたらす「量的な世界」こそが、当事者がもっともつながることを切望し、しかもそこから切断されている世界そのものなのだ。

本書がユニークなのは、こうした「量的な世界」について、無農薬リンゴの栽培で有名な木村秋則氏が発見した「多様な生物体系が息づくホクホクした土」と重ね合わせている点だ。本書にはなんと著者と木村氏、そしてべてるの家の精神科医である川村氏の鼎談も収められているが、これがめっぽうおもしろく、しかも示唆に富んでいるのだ。だいたい、無農薬リンゴの栽培統合失調症の当事者のことがこんなに重なり合うというのがびっくりである。どのへんがそこまで面白いのかは、ぜひ直接本書にあたっていただきたい。

さて、実際に「他の当事者やスタッフの前で自分の病気について話す」際に、実はある「制度」が障壁になる。個人情報保護である。

このあたりは自治体職員としてもたいへん耳の痛い部分なのだが、著者は本書の第7章で、医療関係者やアカデミズムの「専門家」の世界で、過剰とも思える個人情報保護、プライバシー保護が横行し、そのためにかえってこうした「開かれた聴き方」を阻害していることを告発している。当事者自らが語りたいと望んでも、それは「当事者」であるがゆえに、かえって周囲の過剰な「配慮」によって阻止されてしまうのだ。

「「プライバシーの保護」はいま、人が生きるという素朴な感覚と、私たちの日常的な暮らしの実感からかけ離れたところで肥大化・権威化しつつある。精神保健福祉の現場に蔓延するプライバシーと個人情報の過剰な保護が、精神障害をもつ人たち、特に統合失調症をかかえる当事者の生命線ともいえる「人と人との生命的なつながりをいかに回復するか」という命題に、深刻な危機を招く可能性を孕んでいると私は思う」(p.160)


さらにこんなふうにも。

「少しきびしいことを言わせていただければ、"一方的"になされるプライバシーや個人情報の保護は、当事者の人権を守るという大義名分の裏でほとんどの場合、施設・機関・組織の「自己保身」の姿勢が反転したものではないだろうか」(p.173)

なお、これを読んで今回のベネッセの事件を思い出す方も多いだろうが、これはちょっとレベルの違う話。あくまで、本人との具体的な関わりの形成において、個人情報保護制度がその足を引っ張っていると、著者は言っているのである。