自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1796冊目】中井久夫『分裂病と人類』

「障害者をめぐる20冊」18冊目。「分裂病と人類」「執着気質の歴史的背景」「西欧精神医学背景史」の3章からなっている。第1章「分裂病と人類」の冒頭にこう書かれている。

「これは分裂病問題へのきわめて間接的なアプローチにすぎない。しかしこのような巨視的視点から眺め直してみることも時には必要ではあるまいか」

この言葉は、第1章のみならず本書全体にあてはまる。精神科医である著者の臨床体験は、この本ではほとんど出てこない。そのかわりに精神分裂病(今は「統合失調症」と呼ばれるようになっているが、ここでは本書にならい前の呼び方で統一する)やうつ病などの精神病、あるいは精神症状を、その周囲をとりまく文化や社会、歴史の中に位置づけて再検討しているのだ。特に第3章「西欧精神医学背景史」は、古代ギリシアから現代までのいわゆる西欧文明を、精神病のありようを軸に総ざらいすることで、かえってヨーロッパというものの本質を逆照射しており、圧巻だ。

分裂病について言えば、その概念が成立したのは19世紀半ば頃、巨大単科精神病院が欧米各地に設立されて半世紀ほど経ってからだという。しかしそれは、分裂病自体がその時点で発生したという意味ではない。むしろそれ以前の、ざっくりと「狂気」と称されてきた長い時代の多彩な状態にこそ、その時代の狂気への捉え方が見えてくる。

第1章では、著者は歴史以前の「狩猟採集民」から「農耕牧畜民」への変容に着目する。分裂病気質者(著者は「S親和者」と呼ぶ)の特性である「兆候的なものへの敏感さ」が、狩猟採集の社会では優位に働いたのではないかという指摘が興味深い。わずかな兆候から獲物や危険の存在を察知することに加え、著者が着目するのは、分裂病者特有の「匂い」について、「人間が不安なときに出す警戒フェロモン」ではないか、との説だ。

一方、農耕民の社会は強迫症親和的である。人間の生活は自然から切り離されて秩序を形成し、やがて支配・被支配の関係が生まれる。こうした社会は強迫症的な性格に近しいものといえる。しかし、分裂病的気質者にとってはどうか。

「分裂病者の社会「復帰」の最大の壁は、社会の強迫性、いいかえれば強迫的な周囲が患者に自らを押しつけて止まないこと、である。われわれはそれを日々体験している。われわれは社会の強迫性がいかに骨がらみかを知っており、その外に反強迫性的ユートピアを建設することはおそらく不可能である。ただ言いうることは、私がかつて分裂病者の治癒は「心の生ぶ毛」を失ってはならないといったが、実はそれこそは分裂病者の微分(回路)的認知力であって、それが摩耗してはすべてが空しいことである。少なくともそれは、分裂病者あるいはS親和者から彼らが味わいうる生の喜びを奪うであろう」(p.33-4)


とはいえ、では現代社会において分裂病的気質者はまったくの不適合かと言えば、そういうことでもない。おもしろいのは分裂病的気質者の「先取り的な構え」、かすかな兆候への予感能力が、実は恋愛において優位であり、結果として子孫を多く残すことにつながっているのではないか、という仮説だ。

それが狩猟採集民時代の名残りなのか、それ自体、人類の存続に何らかの役割を果たしているのかが問題であるが、しかし著者がいうように、「強迫的気質」の農耕民ばかりの世の中というのも生きづらい。「分裂病者という大量の失調者は、人類とその美質の存続のためにも社会が受諾しなければならない税のごときものであると言ってよいのではあるまいか」(p.36)と著者はいうが、加えて言うなら、分裂病気質の人々がある程度いるおかげで、世の中はいくらか面白く、エキサイティングなものになっている。

ふう、ここでやっと第1章。この後に日本社会の歴史を辿りつつ日本人の「執着気質」を考察した第2章、そして冒頭でも書いた圧巻の第3章とあって、実は取り上げたく思って付箋を貼ったページがまだまだいっぱいあるのだが、キリがないのでここまでにする。

ひとつだけ備忘のために書いておくとすれば、第3章のラスト近く、西欧的な「自己」は、もともと「神」と対置されるものだったという指摘が印象的だった。

少なくとも中世から近代にかけては、まず神があって、その前に立つものとしてはじめて「自己」が認識された。

ところが19世紀あたりから、「神なき時代」が徐々にはじまっていった。で、どうなったかというと「神が次第に遠のくとともに、肥大した自己だけが残った」のである。そして、最初の方に書いた、巨大単科精神病院が設立され、分裂病が「発見」されたのはまさにこの頃なのだ。

このことをどう考えるべきか。著者はここで、精神科医こそが患者にとっての「司祭」あるいはいっそ「神そのもの」になりつつあるのではないか、というおそるべき疑問を提出する。神という「相手」を失った自己が、その失調ゆえに精神病を起こしているということなのだろうか。もちろんここでいう「神」とは一神教の神である。日本には別の宗教形態がある、とここで言いたいところだが、実際には、神なきままに近代的自我とやらを「輸入」してしまった日本こそ、この「病」が深刻なのである。