自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1685冊目】山脇由貴子『教室の悪魔』

教室の悪魔 見えない「いじめ」を解決するために

教室の悪魔 見えない「いじめ」を解決するために

教育・学校本13冊目。このへんから、小学生の子をもつ親としては、ちょっと胃が痛くなるようなテーマになってくる。だが現代の学校を考える上で、ここを外すワケにはいかない。

本書は「いじめ」をテーマにした一冊だ。著者は東京都児童相談センターで働く児童心理司。いわば児童対応の「プロ」である。

いじめ対応にプロもアマもないと思ったら大間違い。「「いじめ」は解決できる」と題した第1章を読んでびっくりした。まさに「プロの対応」なのだ。やるべきこと、やるべきではないこと、対応の優先順位などが見事に整理されており、シロウトではとてもこうはいかない。

特に感心したのは、学校との対応方法。「学校でいじめを調査させない」(被害者が「いじめはあった」と言っているのだから、親はその事実を伝えに来た」というスタンスをとる。「相談しに行く」のではない)、「責任追及と問題解決は分けて考える」「学校だけではいじめは解決できないと考える」(そもそも学校だけでは無理。担任だけではもっと無理)など、たいへん分かりやすく、しかも実践的だ。

加害者の親に対しても、安易に責任追及すると、相手も自分の子を守ろうとしてしまうので、あくまで親として一緒に問題を解決するという姿勢をとるべきだという。これは被害者の親の心理としてはなかなかキビシイものがあるが、そもそも今のいじめは「クラス全員が加害者」なので、特定個人を責めすぎるのはあまり意味がないのだそうだ(明らかに加害者がはっきりしていて治療費の支払いなどを望むとしても、弁護士などに間に入ってもらうほうがよいという)。

しかし、親として何より重要なのは「まず学校を休ませる」ことだという。いじめの存在が確認できてから、ではない。いじめに遭っているかもしれないと感じた時点で、ためらわず学校を休ませるのだ。

ただ、実際に子どもの親をやっていると、これを躊躇なくやるのはかなり思い切りが要る。そもそも子どもはいじめを受けていても隠そうとする。休んだりしたら余計いじめがエスカレートするから、無理してでも学校に行こうとする。いじめの事実を学校に伝えても、加害者は担任に気付かれないよう巧妙にやり方を変えるだけだ。

だから問答無用で「休ませる」。ただし、同時に親のメッセージも伝える。「学校を休ませるのはあなたの安全を確保するためだ」「いじめが解決して安全が保証されるまでは、学校には行かなくてよい」と。

ここまでやるの、と思われるだろうか。いじめなんて昔からあった、いじめに耐える力をつけることも大事、と考えるだろうか。もしそういう方がおられたら、本書はまさにそういう方のための本だ。現代のいじめがいかに巧妙悪質で、いわば「致死性」のものであるか、その具体例が本書にはイヤというほど載っている。正直、読んでいて吐き気がしてくるものばかりだが、実情を知らなければ何も始まらない。

以前のいじめには「加害者」「被害者」「傍観者」がいるとされてきた。しかし現代のいじめは、一人の被害者とその他全員の加害者、という構図になる。なぜか。著者は次のように書いている。

「いじめは心の疾病である。大人の見えないところで子ども達の間に伝染してゆくウィルスである。けれどこのウィルスは、ウィルスに侵されていない人間だけがダメージを受けるという特徴を持つ。ダメージを受けないためには感染しなくてはならない。だから子ども達は、ダメージを受けないために、被害者にならないために、ウィルスに感染して加害者となってゆくのだ」


読めてよかった、と素直に思えた。少なくとも、子どもがいじめを受けていると感じた時に、まず何をすればよいのか、何をしてはならないのかが具体的に理解できた。実用書という言葉があるが、子を持つすべての親にとって、本書は子どもの命を救うための究極の「実用書」。『家庭の医学』と同じく、一家に一冊レベルの本である。

そして、いじめは決して被害者だけの問題ではない。著者の次の言葉を、われわれ大人たちは肝に銘ずるべきだろう。

「いじめ根絶への取り組みは、子ども達に、悪いことをすれば必ず発覚し、ペナルティを受けるのだという社会のルールを教え、いじめが許されるという歪んだ正義がまかり通っていた子ども社会を、秩序のある社会に立て直すという取り組みである。それは、子どもだけでは決してできない。大人達の取り組みが必要である。いじめに立ち向かわなくてはならないのは、実は子どもではなく、大人なのである」