【1442冊目】高山宏『近代文化史入門』
- 作者: 高山宏
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/07/11
- メディア: 文庫
- 購入: 11人 クリック: 93回
- この商品を含むブログ (45件) を見る
副題は「超英文学講義」。講談社編集部の面々を前に、2日間にわたって行われた「講義」の、書き下ろしならぬ語り下ろしの一冊だ。
「近代文化史」とか「英文学」とか、高山宏にしてはおとなしいタイトルだが、中身はさすがの高山節炸裂である。だいたい英文学といいながら、しょっぱなに出てくるのはなんとニュートン『光学』の話なのだ。
どうなることかと思いきや、この導入がいつの間にか「光」と「見え方」という一大テーマにつながり、マニエリスム、風景論、ピクチャレスク、造園、観相学、レンズと写真……といった意外極まる領域を通り抜け、「光のパラダイム」なるタイトルのエピローグまでつながっていく。これが英文学? と思うようなラインナップであるが、読み終わってみると、「これこそが」英文学であると心の底から得心する。
文学という枠の中で(せいぜい社会や思想との連環のなかで)文学を論じてきたこれまでの「英文学」(あるいは「仏文学」「米文学」「日本文学」……)はいったいなんだったのか、と思わせられる。文学は(他の分野も同じだろうが)常に自然科学や哲学、宗教、アートなどと隣り合わせであって、相互の往来がないほうがおかしいのだ。
面白かったのは17世紀に登場した「王立協会」なる集団の存在である。シェイクスピアを抹殺した、と著者が評するこの団体は、自然科学者によって構成され(なんと4代目総裁はニュートンだった)、言語の曖昧性を排撃し、数学のような「エレガントな」誤解の余地のない言語だけに整理しようとした(ダブル・ミーニングだらけのシェイクスピアはそれゆえ「抹殺」されたというわけだ)。さらにその背景には、当時のイギリスを席巻したピューリタニズムがあったという。
しかもこの団体、言語の「シンプル・メッセージ」性を極めようとするあまり、ライプニッツばりの普遍言語運動まで始めてしまうのだ。
初代総裁ジョン・ウィルキンズは「0と1の二進法表記で物を書く方向にまで行こう」(p.42)としていたというからびっくりだ。現代のコンピュータの思想的「原型」は、こんなところにあったのである。ちなみにこの系譜は、英文学の文脈でいくと、なんと『不思議の国のアリス』のルイス・キャロルにまで行きつくことになる。
ここで一筋縄ではいかないのは、こうした合理の極みとでもいうべき傾向と並んで、マニエリスムのような魔術哲学やらオカルティズムやら見世物やらグロテスク趣味が、同時に「英文学」の背景に息づいていたことだ。しかもこうした要素は、合理の世界と対立するのではなく、同時に矛盾なく存在するというのである。エピローグ「光のパラダイム」に、著者はこう書いている。
「幻想とは、光の対蹠地にあるものではなく、光そのものが何かの形に変質していくものである。
ぼくは光のパラダイムとして近代を考えようとして、合理〈対〉幻想という批評的バイアスを棄てた。すると、多分だれも見ていなかった線が歴史の中を貫流していくのが、ゆっくり、三十年ほどの時をかけて、見えてきた」(p.294)
だから、私も最初読んだ時はそうだったのだが、例えばマニエリスムやオカルティズムを、単に合理と相反するもの、ニュートンや王立協会やOEDなどと「対立するもの」と捉えてしまうと、本書はとたんに分かりにくくなってしまう。本書はその全体が、この「合理」と「幻想」を架橋する試みであって、その上に英文学、あるいは「近代文化史」そのものが乗っかっているからだ。
そして、本書は著者の英文学への訣別の書でもあるらしい(著者は率直に「もう飽きた」と書いている)。しかし私が驚いたのは、著者高山宏がそもそも「英文学者」であったということだった。もっともそれは、著者のような横断的で変幻自在の知の持ち主をそんな枠にはめ込まなくてはいられないような、アカデミズムそのものの「つまらなさ」なのかもしれない。
ちなみに余計なことかもしれないが、著者はかつて東京都立大学英文科の教授だった。しかし「首都大学東京」と名を変えてイシハラ大学改革の「犠牲」となったこの大学を見切り、今は明治大学国際日本学部に籍を置いている。近著『新人文感覚1 風神の袋』にそのあたりの経緯を詳しく綴った文章が収められているので、興味のある方はご一読を。