自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1126冊目】スティーヴン・ホーキング&レナード・ムロディナウ『ホーキング、宇宙と人間を語る』

ホーキング、宇宙と人間を語る

ホーキング、宇宙と人間を語る

本書第3章のイントロで、金魚を丸い金魚鉢に入れることを禁じたイタリアのある都市の話が出てくる。その理由は「金魚鉢に入った金魚には外の世界がゆがんだものに映ってしまうので、金魚にとって残酷である」とのことだそうだ。

ホントの話かどうか知らないが、なんだかものすごく腑に落ちる比喩だった。ここで明らかに金魚は「われわれ自身」のメタファーである。われわれが認識している世界や宇宙は、ひょっとしたら(というか、おそらくは)金魚鉢の曲面によってゆがめられたものにすぎないのだ。それをストレートに記述しようとすると、ユークリッド幾何学ニュートン物理学になる。しかし、金魚鉢の外からの視点からすれば、それはとんでもなくズレた世界認識にすぎない。

では金魚には、外の世界を「正しく」認識することはできないのか。そうではない、と著者は言う。金魚にもしすぐれた知性があれば、ゆがめられた認識を考慮に入れて(ゆがみの分を割り引いて)物理法則を組み立てることができるはずだ。それは彼らのゆがめられた視点から組み立てられたものではあるが、だからといってそれが現実を正しく反映していることは認めざるを得ない。

これを読んで腑に落ちたのは、われわれにとっての相対性理論量子力学もまた、金魚鉢の中からみた現実世界の理解なのだ、ということだった。本書は、類書に比べてもかなり分かりやすくこれらの理論を説明してくれているが、やはりそれが直観的に「納得できる」ものにはなってくれない。しかし、それはそういうものなのだ。われわれは、あくまで金魚鉢の中の金魚なのだから。

著者は本書のなかで一貫して「モデル依存実在論」という視点で議論を展開している。この考え方の前提になっているのは「私たちの脳が世界のモデルを作ることによって、私たちの感覚器からの入力を理解する」というものだ。そして、そのモデルが現実の事象をうまく説明できているとき、私たちはそのモデルを真理とみなす。著者は本書の別の個所で、それを「物理の理論や世界の描像は、モデルやモデルの要素を観測事実とつなぐ法則の集まりである」とも行っている。

このスタンスに立って展開される相対性理論量子論など、最前線の宇宙〜物理理論の解説は、難しい個所もあるが総じてなかなか分かりやすい。ホーキングがこれほど比喩がうまく、説明上手とは知らなかった。もちろんそこには、カラフルで適切な図版の使用も含めて、サポート役のムロディナウの説明能力もたっぷり寄与しているのだろう。

ちなみに白状すると、もっとも「分からなかった」のは、ファインマン量子論のあたり。特に「ファインマンダイアグラム」や「歴史を足し合わせる」という考え方が、いまひとつ素直に入ってこなかった。このへんは後日、ファインマン自身のテキストで埋め合わせることにしよう。もっともその説明の中にあった「歴史が私たちを創るのではなく、私たちの観測によって私たちが歴史を創っているのです」というフレーズには、痺れた。量子論って、要するにそういうことだったんですね。

さて、本書は最後の最後になって、宇宙の生成という大テーマに向かっていく。そこでホーキングは、宇宙が無から生成した、と断言する。しかし、なぜ「無」から「有」が生まれるのか。それは、重力の存在による。重力が時間や空間を形づくり、宇宙の自発的生成を可能にしているのだという。それはつまり、宇宙の法則が宇宙を創ったということである。その法則こそが、本書の原題である「The Grand Design」=偉大なる設計図なのだ。

なんだかシロートには分かったような分からんような結論だが、完全には理解できないながらもところどころに真理の存在を感じ、痺れることができるのが、宇宙論のエキサイティングな魅力である。今まで難しそうで敬遠していたが(今でもおっかなびっくり読んでいるのだが)、分からなくってもエキサイティング、なんて分野、宇宙論のほかにあるだろうか。ということで本書は、金魚鉢のなかの金魚に外の世界を垣間見せてくれる一冊だ。次はファインマンに挑戦しようかな。