【1125冊目】パーサ・ダスグプタ『経済学』
- 作者: パーサ・ダスグプタ,植田和弘,山口臨太郎,中村裕子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2008/07/25
- メディア: 単行本
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経済学の教科書なんてほとんど読んだことはないので、本書がどの程度「変わり種」なのか良く分からないが、かなり問題意識の高い本だということは感じられた。
学生時代に読んだ(読まされた?)テキストを思い返してみると、経済学が対象としているのは、主に先進国の市場経済であるような印象があった。せいぜいアメリカ型の市場主義的な経済と、社会民主主義的なヨーロッパ型の経済が比較される程度だろうか。ところが本書は、途上国の農村共同体の「経済」が一方の主役を張っているのである。そんな経済学の教科書が、今までどれほどあったのだろうか。
本書は冒頭で、二人の少女とその家族をモデルケースとして提示する。一方はアメリカの裕福な家庭に生まれ育つベッキー、もう一方はエチオピアの貧しい農村に生まれ育つデスタ。そして、本書の記述は最初から最後まで、「ベッキーの世界」と「デスタの世界」を両にらみで進んでいく。つまり、本書に書かれている経済学とは、「ベッキーの世界」であるアメリカの高度に発達した資本主義経済と、「デスタの世界」である共同体型の(カール・ポランニー流に言えば「市場が社会に埋め込まれている」)途上国の経済を両方扱うものとなっているのだ。
そのため、本書の章立ては少々変わっている。「信頼」とか「共同体」といった要素が最初の方で論じられ、市場経済もそれ単独で記述されるのではなく、常にその出自となっている共同体的社会との比較で論じられる。冒頭で書いたとおり、そういうやり方が経済学という「ギョーカイ」の中で一般的なのかどうかは分からないが、もしそうでないとしたら、それはおそらく、これまでの経済学のほうがどこかおかしいのだ。
なぜなら、人口ベースで言えば、今でも世界の大部分は農村共同体が主体の「デスタの世界」であり、むしろ市場が高度に発達した「ベッキーの世界」のほうが少数派であるからだ。もっとも、実際にはそんな「ベッキーの世界」の経済システムがグローバリズムとして世界中を寡占的に支配し、そのことが投機マネーの流入による食料価格高騰を招いている(したがって、デスタの世界にも影響を及ぼしている)わけで、それはそれで大問題なのだが……。
本書のもうひとつの特徴は、「持続可能な経済発展」について一章が割かれていることだ。これもまた昨今の、四半期〜決算期単位の近視眼的な経済合理性を追求する株主中心型の経済学とは、かなり異質な視点ではなかろうか。なお、この「持続可能」の意味合いとして、著者は「各世代は前の世代から受け継いだ生産的基盤と少なくとも同じだけの生産的基盤を後続世代に残すことが必要となる」と述べている。
実際に、著者は国ごとの経済の「持続可能性」を測定しているのだが(人口を考慮に入れると、米国は「持続可能」な程度に収まっているが、パキスタンは「持続不可能」なほどの経済発展を遂げている)、ここでも問題は「デスタの世界」だ。1970年から2000年にかけての国民一人あたり生産的基盤が、先進国がほぼ横ばい、アジアなどの途上国の多くが増大しているのに対して、サハラ砂漠以南のアフリカでは低下しているのである。これはつまり、最近の30年間で彼らは「より貧しくなっている」ということなのだ……。
これは「持続可能性」という意味では望ましい結果とさえいえることだが、問題は地域の著しいアンバランスだ。持続可能な経済発展はたしかに大切なことだが、だからといって「地球のために、アフリカの人々は今のままでいろ」とは言えない。持続的な貧困の問題と、環境面での持続可能性の問題を両立することが必要なのだが、そのための妙案はなかなか見つからない。
ということで、本書はコンパクトながら実に視野の広い、ある意味たいへんまっとうな経済学のテキストである。空間的にも時間的にも、ここまで世界全体を視野に収め、経済学の土俵で議論を展開するというのはなみたいていではない。訳者解説も懇切丁寧で、日本の読者向けの参考文献も充実している。こういう経済学の教科書があるのなら、もっと早く読んでおけばよかったと思えた一冊。