自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2491冊目】車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』

 

赤目四十八瀧心中未遂

赤目四十八瀧心中未遂

  • 作者:車谷 長吉
  • 発売日: 2001/02/09
  • メディア: 文庫
 

 

 

「私」は、部屋で臓物をさばき、鳥の肉を串に刺し続ける。1本3円で、1日に千本。1日2回、さいちゃんという若者ができた分を取りに来る。向かいの部屋からは人のうめき声が聞こえ、隣の部屋では女が男を連れ込んでいる。

尼崎のうらぶれたアパートを舞台に、くすぶり続ける「生活」とのたうちまわる「情念」を描いた小説だ。地べたを這うような文章の迫力は、どんな理論もお題目も吹き飛ばし、世界のどん底のような場所に読者を引き摺り込む。

 

「別段、私に確固とした『私。』があったわけではない。これが掛け替えのない私、と思うてはいても、その私も、実は他者との関係性の中で作られ、他者が捏造した言説を呼吸して形成されて行く私、つまりは、あやふやな、どこ迄が私に固有の私なのか知れない私だった。が、そんな私であっても、これが流失して行くことは不安であり、併しまたその不安の裏には、さらにそういう不安を覚えることそれ自体を厭う、おぞましい『私。』がひそんでいた。私は『私が私であること。』に堪えがたいものを感じた。しかもその私が無意味に流失していた」(p21〜22)

 

この小説は、全編を通じて「おぞましい私」をこそ徹底的に描いたのではなかろうか。それは我々自身の「おぞましさ」に呼応し、共鳴する。本書はそういう、見たくないものをあからさまに映し出す鏡のような作品なのである。

【2490冊目】小川洋子『小箱』

 

小箱

小箱

  • 作者:小川 洋子
  • 発売日: 2019/10/07
  • メディア: 単行本
 

 

不在の物語。

「私」が住んでいるのは、以前幼稚園だった建物だ。お遊戯室の壁に貼られたカードからフックに1つだけ残された園児の帽子までが、そこにはそのまま残されている。そして、講堂には、ガラスケースがずらりと並んでいる。

ケースに入っているのは、死んだ子どもたちのための物ばかり。遺品、ではない。子どもたちの「成長」に合わせて、中身は時々入れ替えられる。子どもを亡くした親たちは、ひっそりとそこを訪れるのだ。

「私」のもとを訪れる人々も、いっぷう変わっている。歌うことでしか話せない「バリトンさん」、来るたびに庭の遊具で遊ぶクリーニング屋の奥さん、死んだ子供が歩いたところしか歩けず、死んだ作家の本だけを読む従妹、等々。そして、町はずれの丘では奇妙な音楽会が開かれる。「一人一人の音楽会」と呼ばれるその音楽会では、「演奏家」たちは小さな小さな楽器を自分の耳たぶにぶら下げる。貝殻や木片やセロファン紙でできた楽器には、子どもたちの遺髪でつくられた弦が張られているものもある。楽器を奏でるのは、丘を吹く風。そのかそけき音は、「演奏家」にしか聞こえない。

なんという「壊れやすさ」に満ちた世界観。だがそこでは、人々は静かで、礼節があり、お互いを深く尊重している。子どもの死という、もっとも過酷で傷つきやすい経験を経ているためか、そこではお互いの弱さが許され、過去を振り返ることが許されている。そこは、不在によって支配された世界であって、負のかたちで穿たれた社会なのである。

【2489冊目】河合隼雄『家族関係を考える』

 

家族関係を考える (講談社現代新書)

家族関係を考える (講談社現代新書)

 

 

なんと40年ほど前に書かれた本。家庭内暴力や非行がクローズアップされている一方、今なら家族の「症状」として外せないであろうひきこもりや虐待、DVや毒親の問題などはあまり出てこないが、それにしても本書の指摘の大部分が今なお当てはまり、読んでいてうなずかされるのには驚く。

 

もっとも、著者によれば家族関係の問題は遠く日本やギリシアの神話にまで遡れるようであるから、40年などたいしたことはないのかもしれない。それほどに、家族の問題とは人間にとって普遍的なものであり、家族の形態は時代によって変われども、その抱える課題は変わらない。

 

家族とは、考えてみれば不思議なものである。家族関係を面倒くさがって仕事に逃避している親は、いずれ家族そのものから手痛いしっぺ返しを食らう。一方、家族に注ぐエネルギーは、かえってその人のエネルギーを充実させ、人生を充足させる。親密すぎる関係に絡め取られることもあるし、過度の「自立」がかえって空虚な孤独を生むこともある。

 

「家族はわれわれに実存的対決の場を用意するのである」と著者は本書の最後近くになって書く。そこにはマニュアルはなく、正解もない。模範的に見える家族が実は大きな破綻を抱えていることもあるし、家族の内部で起きたトラブルが、実は家族を修復することもある。家族ほど面白く、また奥深いものはない。

【2488冊目】塚本邦雄『茂吉秀歌「赤光」百首』

 

茂吉秀歌『赤光』百首 (講談社文芸文庫)

茂吉秀歌『赤光』百首 (講談社文芸文庫)

 

 

「写生」「写実」で知られる近代短歌の巨人、斎藤茂吉の『赤光』を、前衛短歌の雄、塚本邦雄が解説する。短歌界の異種格闘技戦のような一冊かと思いきや、案外議論が「かみ合って」いておもしろい。

まあ、考えてみれば、わざわざ『赤光』から百種選んで解説をつけようというのだから、それなりのリスペクトがあるに決まっている……のだが、まさかここまでとは思わなかった。なにしろ本書の冒頭で、著者はこんなふうに書いているのである。なおここに限らず、著者の駆使する正字正仮名遣いは、フォントがないため現代語にさせていただきます。ご了承ください。

「滅びの詩歌であった短歌は、その最後の炎上を、この天才の誕生によって試み、以後われわれの見るのは、ことごとく余燼ではないかとさえ、私は時として考えるのだ」(p.15)

塚本邦雄をしてそこまで言わしめるとは、とも思えるが、それも本書で取り上げられた作品をいくつか眺めてみれば納得できる。というか、短歌だけ見てもそこまでとは思えなかったものが、著者の解説によって、その凄み、怖さ、悲しさが浮かび上がってくるのである。例を引きたい箇所が多すぎてかえって難しいのだが、では茂吉の代表作のひとつであるこちらはどうか。

 

「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」

 

 この歌の解説では「臭い」を読み取る著者の感性に驚いた。「仄暗くひっそりとした病室には、薬香と長患いの老母のにおいが籠っている。饐えた汗と脂と、そしてあの乳の臭い、他人には異臭悪臭のたぐいであろうとも、子にとっては手繰り寄せたいような懐かしいにおいであった。血に繋るその悲しいにおいに、死臭の混る刻の、さほど遠からず到ることを、医師である作者は知っていたことだろう。しかし、そう思うことすら今は耐えがたい」う~ん。この歌は「聴覚」だけでなく「嗅覚」にも訴えかける作品であったのか。

あるいは、こちらはなんとなく怖いと思ったが、なぜそう感じたのか言語化できなかった作品。著者はそれを見事に言語化して読み解いて見せる。

 

「にんげんの赤子を負へる子守居りこの子守はも笑はざりけり」

 

まず「にんげんの」が怖い。それを著者は「猿でも人でもなく、「ひと」と呼ぶ哺乳類の幼獣」と言い換えて見せる。そしてその幼獣を背負う子守りが「笑わない」というのも、怖い、というか、やるせない。せいぜい十代前半であろうこの子守りは、無情な主人夫婦にこき使われるうちに、笑うことさえ忘れてしまったのか。「不幸にも逆境にも悪意にも。五つ六つの頃から馴れてしまった彼女の神経は鈍麻してゴムのようになり、微笑も浮べぬポーカーフェイスは肉附の面になりおおせた」「そして晴れた日には、日向ぼっこをしながら、うっとりと夢見る。主人夫婦とこの嬰児三人、この前鼠捕りに使った石見銀山で、ある晩鏖殺(みなごろし)にすることを」

この31文字でここまで想像をめぐらせる著者のほうがよほど怖いが、この解説のキモはその後にある。おそらく茂吉自身はそこまで考えての上ではなく、偶然見かけたものをありのままに写生したのだろう、と言ったうえで、こう書くのだ。

「私はそれならなおのこと慄然とする。何ら告発の意図も無く、創作意識など爪の垢ほども無く、これほど無気味な、底意のある歌を、何気なく発表できる作者の桁外れの才能と言語感覚に、限りない畏怖を覚える」(p.138)

茂吉の歌が写生であって写生を超えているのは、まさにこの点に於いて、なのだろうと思う。茂吉自身「写生を突きすすめて行けば象徴の域に到達する」と述べたというが、意図せず作為なく、一足飛びにそこまで到達する茂吉の才があってはじめて、この言葉は成り立つのではないか。そして、まったく別の道から象徴を追い求めてきた著者だからこそ、その才に慄然とできるのだ。

【2487冊目】吉村昭『高熱隧道』

 

高熱隧道 (新潮文庫)

高熱隧道 (新潮文庫)

  • 作者:吉村 昭
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1975/07/29
  • メディア: 文庫
 

 

隧道とはトンネルのこと。トンネル工事、舞台は黒部、といっても「黒部の太陽」とは時代が違う。昭和11年から15年にかけて行われた黒部第三発電所工事である。

読みながら、最初は頭の中に「地上の星」が流れていたが、途中から、どうやらそんななまぬるい話ではないことに気付かされた。なんといっても、掘削するトンネル内の温度は最初でも60度以上、それが掘り進めば進むほど高くなり、最後はなんと166度に達するのだ。

爆破用のダイナマイトは、自然発火で爆発する。宿舎は雪崩で吹き飛ばされる。高熱で身体中火ぶくれが出来、身体を冷やすための水は足元に溜まって熱い湯に変わる。まさに地獄絵図というにふさわしいこの無茶な工事は、しかし国策の一環として決して中止されず、人夫たちが次々と犠牲になっていく。多くの犠牲を出した太平洋戦争とまったく同じ構図が、ここにある。これはプロジェクトXどころじゃない、国内で展開された「もうひとつの戦争」なのだ。