自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2488冊目】塚本邦雄『茂吉秀歌「赤光」百首』

 

茂吉秀歌『赤光』百首 (講談社文芸文庫)

茂吉秀歌『赤光』百首 (講談社文芸文庫)

 

 

「写生」「写実」で知られる近代短歌の巨人、斎藤茂吉の『赤光』を、前衛短歌の雄、塚本邦雄が解説する。短歌界の異種格闘技戦のような一冊かと思いきや、案外議論が「かみ合って」いておもしろい。

まあ、考えてみれば、わざわざ『赤光』から百種選んで解説をつけようというのだから、それなりのリスペクトがあるに決まっている……のだが、まさかここまでとは思わなかった。なにしろ本書の冒頭で、著者はこんなふうに書いているのである。なおここに限らず、著者の駆使する正字正仮名遣いは、フォントがないため現代語にさせていただきます。ご了承ください。

「滅びの詩歌であった短歌は、その最後の炎上を、この天才の誕生によって試み、以後われわれの見るのは、ことごとく余燼ではないかとさえ、私は時として考えるのだ」(p.15)

塚本邦雄をしてそこまで言わしめるとは、とも思えるが、それも本書で取り上げられた作品をいくつか眺めてみれば納得できる。というか、短歌だけ見てもそこまでとは思えなかったものが、著者の解説によって、その凄み、怖さ、悲しさが浮かび上がってくるのである。例を引きたい箇所が多すぎてかえって難しいのだが、では茂吉の代表作のひとつであるこちらはどうか。

 

「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」

 

 この歌の解説では「臭い」を読み取る著者の感性に驚いた。「仄暗くひっそりとした病室には、薬香と長患いの老母のにおいが籠っている。饐えた汗と脂と、そしてあの乳の臭い、他人には異臭悪臭のたぐいであろうとも、子にとっては手繰り寄せたいような懐かしいにおいであった。血に繋るその悲しいにおいに、死臭の混る刻の、さほど遠からず到ることを、医師である作者は知っていたことだろう。しかし、そう思うことすら今は耐えがたい」う~ん。この歌は「聴覚」だけでなく「嗅覚」にも訴えかける作品であったのか。

あるいは、こちらはなんとなく怖いと思ったが、なぜそう感じたのか言語化できなかった作品。著者はそれを見事に言語化して読み解いて見せる。

 

「にんげんの赤子を負へる子守居りこの子守はも笑はざりけり」

 

まず「にんげんの」が怖い。それを著者は「猿でも人でもなく、「ひと」と呼ぶ哺乳類の幼獣」と言い換えて見せる。そしてその幼獣を背負う子守りが「笑わない」というのも、怖い、というか、やるせない。せいぜい十代前半であろうこの子守りは、無情な主人夫婦にこき使われるうちに、笑うことさえ忘れてしまったのか。「不幸にも逆境にも悪意にも。五つ六つの頃から馴れてしまった彼女の神経は鈍麻してゴムのようになり、微笑も浮べぬポーカーフェイスは肉附の面になりおおせた」「そして晴れた日には、日向ぼっこをしながら、うっとりと夢見る。主人夫婦とこの嬰児三人、この前鼠捕りに使った石見銀山で、ある晩鏖殺(みなごろし)にすることを」

この31文字でここまで想像をめぐらせる著者のほうがよほど怖いが、この解説のキモはその後にある。おそらく茂吉自身はそこまで考えての上ではなく、偶然見かけたものをありのままに写生したのだろう、と言ったうえで、こう書くのだ。

「私はそれならなおのこと慄然とする。何ら告発の意図も無く、創作意識など爪の垢ほども無く、これほど無気味な、底意のある歌を、何気なく発表できる作者の桁外れの才能と言語感覚に、限りない畏怖を覚える」(p.138)

茂吉の歌が写生であって写生を超えているのは、まさにこの点に於いて、なのだろうと思う。茂吉自身「写生を突きすすめて行けば象徴の域に到達する」と述べたというが、意図せず作為なく、一足飛びにそこまで到達する茂吉の才があってはじめて、この言葉は成り立つのではないか。そして、まったく別の道から象徴を追い求めてきた著者だからこそ、その才に慄然とできるのだ。