【2777冊目】夏目漱石『こころ』
「新潮文庫の100冊2021」全冊読破キャンペーン100冊目。
夏に始まった100冊読破企画も、秋の終わりを迎え、やっとこさ終わりました。記念すべき100冊目は、言わずと知れた定番中の定番、近代日本文学の代表作のひとつです。
とは言ってもこの本、ずいぶん前に読んだきり、ずっと読み返せないでいました。初読の印象がなんとも「痛かった」ので、なかなか再読する気が起きなかったのです。特に「先生の遺書」は読んでいて辛かった。
そして再読したのですが、なんとも不思議な小説だったという印象です。前半の「私」はどこに行ってしまったんでしょうか。遺書を読んでいる「私」に戻ることなく、遺書の終わりと同時に小説が閉じてしまうので、それを読んだ「私」の心境は、読者が想像するしかないのです。
でも、漱石にとってはそれで良かったのでしょう。おそらく、この遺書を披露するために、あえて漱石は「その後の先生の姿」を先に読者の前に示し、一見不要とも思える、先生と離れて実家に帰った「私」と家族のことを延々と描写したのではないかと思います。それでもたいていの小説家なら、形だけでも遺書を読み終わった「私」を最後に登場させて何か言わせそうなものですが。
さて、内容です。前半部分で、先生は「私」にこう言います。「平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」本作の中核となるセリフですね。
そして、遺書の最初の方で、先生をだまして父の遺産をかすめ取った「叔父」が出てきます。この叔父はまさに「平生は善人だが、急に悪人に変わる」典型例です。先生はその被害者で、だからこんなことを「私」に言ったのか、と読者は思います。
ところが、この後で恐ろしい逆転が起きるのです。実は「平生は善人だが、急に悪人に変わる」のは先生自身のことだったのです。先生は加害者でもあったのです。先生が「私」に語ったのは、実は自らのなした悪への懺悔だったのかもしれません。
とはいえ「この程度のことで」自殺するというのは、Kにせよ先生にせよ、今の感覚からするといささかナイーブすぎるように思えます。ですが、当時はそれほどに自分の生き方に対して皆が真摯だったのでしょう。先生は、明治天皇の崩御と乃木希典の殉死を自死の引き合いに出していますが、この意味については、もう少しじっくり考えてみたいと思います。
さて、これで100冊をどうにか踏破することができました。どれほどの方が伴走してくださったのか、確かなことはわかりませんが、皆さんの「いいね」やブックマークは、確かに孤独なレースの励みになりました。どうもありがとうございました。
この後しばらくは、100冊と並行して読んでいた本を何冊かレビューすると思いますが、その後についてはまだ決めていません。この間、新たな著者との出会いも数多くありましたので、しばらくはその線を追いかけていくかもしれません。
それではみなさま、またお会いしましょう。最後までお読みいただき、ありがとうございました!