自治体職員の読書ノート

自治体で働くソーシャルワーカーが、読んだ本を紹介します。

【2573冊目】伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

 

 

「目が見えない」とはどういうことか。目が見える人の感覚要素から「視覚」を引いただけ、ではない。それは「目が見える人とは別の世界」を生きるということなのだ。

 

周囲にある「世界」は同じである。だが、目が見える人と見えない人では、そこから受け取る「意味」が違ってくる。では「意味」とは何かといえば、「『情報』が具体的な文脈に置かれたときに生まれるもの」(p.32)である。本書はそのことを、なんと生物学者ユクスキュルの「環世界」という概念をもとに説き起こしていく。ちなみにこの「環世界」概念は、これ自体が「世界の見え方」が変わりかねない衝撃的な理論なのだ。ユクスキュルの『生物から見た世界』をご一読あれ。

 

それはともかく、確かに目が見えない人は、目が見える人より入ってくる情報量は少ない。だが、そこからどのような「意味」を受け取るかという点に関して言えば、目が見える人も見えない人も同等だ。むしろ情報量が少ないだけ、ものごとの核心を衝くような「意味」を受けることができることもある。

 

例えば、視覚とは基本的に「平面的」なものだ。本書の例で言えば、大阪万博公園にある「太陽の塔」を考えてみる。太陽の塔には、正面に2つ、後ろに1つの「顔」があるという。だが、目が見える人は視覚に頼って太陽の塔を見ているので、なかなか3つ目の「顔」には思い至らない。一方、目が見えない人はもともと視覚に囚われていないので、最初から対象物を立体で捉えることができる。そのため、「太陽の塔に顔が3つ」という認識を自然と持つことができるのだ。

 

さらに言えば、先ほど「正面に2つ、後ろに1つ」と書いたが、これ自体が「目が見える人」の思い込みであろう。いったい誰が、顔が2つあるほうを正面と決めたのか。さらに、目が見えないことでなくなるのが「死角」である。「視覚がなければ死角がない」と本書にもあるが、まさにそのとおり。目が見えない人にとっては、正面も後ろも、さらに言えば表も裏も、外側も内側もない。ある視覚障害者が陶芸をやった時に器の「内側」に装飾をつけたというが、それが奇妙だと思うのは、それこそ目が見える人の先入観である。

 

こう考えていくと、目が見えない人と目が見える人の対話は、ある種の「異文化コミュニケーション」に近いといえるかもしれない。ここで大事なのは、「見えること」を基準に考えないことだ。見えている人が一方的に「情報」を提供するだけでは、一方的、恩恵的な関係にとどまってしまう。それよりも、お互いが受け取っている「意味」を相互に交換することの方が大事だし、なにより面白い。そこでは「目が見えない」ことが、お互いの関係を深めるための「触媒」になるという。目が見えない人も目が見える人も、そこでお互いの「見えている」世界を知り、驚き、共感したり違和感を感じたりする。そこに生れるものこそが、ホンモノのコミュニケーションなのだろう。

 

さて、この「題名」が気になっている人もいるだろうから、最後にコメントを。目が見えないのだから、世界を「見ている」ワケないじゃないか、と思われるかもしれないが、著者はそもそも「見える」という作用を視覚と切り離して考えている。本書に出てくる実験で言えば、目の前の風景や映像をビットマップ化して電気的な刺激に変換する装置をおでこに当てて刺激を与えると、目が見えない人も「あ、見える見える!」と叫んだという。「見る」とは、本質的には、目ではなく脳の作用なのである。目以外のところから入ってきた情報であっても、脳が反応することで「見る」ことは当然あり得るのだ。この点では、目が見えない人も目が見える人も、同じような感覚を得ることになる。

 

それ以外にも本書は、運動や絵画鑑賞といった様々な状況における「目が見えない人の見え方」をさまざまな角度から明らかにしていく。そこからまさに「見えて」くるのは、目が見えないことによって得られる豊かな「意味」の世界である。それは、福祉的な視点や医療的な視点からは決して見えてこない、わたしたちのすぐ隣にあるワンダーランドなのである。