【2397冊目】大井玄『「痴呆老人」は何を見ているか』
他の利用者を夫と思い込む、家に帰ろうとして外に出てしまう、誰もいないところに話しかける、食事をしたことを忘れる、物を取られたと思い込む・・・。本書は、こうした痴呆老人(著者は「認知症」という名称には否定的なスタンスらしい)の見せる奇妙な行動や発言に、あらためて光を当てる一冊だ。驚くべきはそこに、心理学者ウィリアム・ジェームスの自我論、生物学者ユクスキュルの「環境世界(環世界)」や仏教の唯識などを持ち込んでいること。正直、ちょっと舐めた気持ちで読み始めたのだが、ユクスキュルが出てきたあたりで背筋が伸びた。とはいっても、内容は決して難しくない。むしろ、表面を見ていても理解が難しい認知症特有の行動や発言の奥に何があるのかが、瞭然と見えてくる。
認知症だからといって知的能力が低下しているわけではなく、むしろ「正常とされる老人のほうが知能検査の結果がかんばしくなかったという調査結果が紹介されており、なんとも意外。認知症は、自己の内的世界に基づく独特の世界把握(人は見たいものしか見ない)と、周囲の不適切な対応によるいわば二次症状が合わさったものなのだという。したがって、周囲の人ができることは「適切な理解と対応」を土台としつつ、かかわりを止めないこと。「痴呆老人」への対応として必要なのは、なによりも人と人とのつながりなのである。
具体的には「周囲が年長者への敬意を常に示す」「ゆったりとした時間を共有する」「彼らの認知機能を試したりしない」「好きな、あるいはできる仕事をしてもらう」「言語的コミュニケーションではなく情動的コミュニケーションを活用する」などに注意する必要があるという。認知症状を示す老人に敬意を、と言われても、日々関わっている人にとっては難しいかもしれないが、それによって認知症の進行や二次的な症状が減るということであれば、割り切ってやってみてもよさそうだ。だいたい、問題なのは「症状」であって、その人そのものではないのだから。