自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2561冊目】蔭山宏『カール・シュミット』

 

 

新型コロナウイルスをめぐっては、これまで見られなかったような形で、国や自治体のトップの「決断」が注目された。日常とかけ離れた環境で、確たるデータも明確な予測も皆無な中で、それでも何かを決めなければならないという状況は、それぞれのリーダーの力量を恐ろしいほどはっきりと映し出してしまう。まさにカール・シュミットのいう「例外状況」が目の前に出現した瞬間であった。

 

政治における例外とは「現行の法秩序が停止される状況」「時には人びとの生死が賭けられている状況」(p.18)を言う。既存の法律を適用するだけでは対応できないという意味では、今回の新型コロナウイルス禍はまさしく「例外状況」であったといえるだろう。シュミットはまさにこうした例外状況から政治を捉えようとした。

 

「常態はなにひとつ証明せず、例外がすべてを証明する」「主権者とは、例外状況に関して決定(決断)を下す者をいう」とは、いずれもシュミットの言葉である。つまりシュミット的観点から言えば、今回のような事態において国や自治体のトップの姿勢や力量が明確にあらわれてしまうのは、むしろ必然であったということになる。

 

本書はカール・シュミットの思想の内容とその変遷をコンパクトにまとめた一冊だ。コロナについてはあとがきでちらりと触れられている程度だが、「例外状況」をめぐる考察はまさにタイムリーで、今回のコロナ騒動を読み解くにもぴったりだ。一方、ナチズムへの傾倒や晩年の「変節」に対する厳しい批判もみられ、単なる礼讃だけではないバランスの取れたシュミット論になっている。

 

シュミット思想の内容はきわめて広範であるが、それは別として本書を読んで感じたのは、その思想の剛直さに比べた、一人の人間としてのシュミットの「小ささ」であった。ナチスに糾弾されそうになるとあからさまにナチス側にすり寄り、戦後になると自己正当化やドイツの正当化に走り、アメリカやソ連を批判しつつ自国に都合の悪い部分には目をつぶる。まあ、学者が人間として立派であるかどうかは別問題なのだから(みんながフランクルみたいになれるわけではない)、あまり気にする必要はないのかもしれないが、その主張との落差には、やはり軽い失望を感じてしまう。

 

読んでいて思ったのは、シュミットは誰よりも「不安定」をおそれていたのではないか、ということだ。じっさい、本書の終盤で、著者はこのように指摘する。

「シュミットは政治的秩序の崩壊を何よりも恐れる思想家であり、それを回避できるのが主権者の断固たる決断だった。このような論理構成のゆえに、かれの議論においては、何のための決断かよりも決断それ自体が重視されることになり、カール・レーヴィット丸山眞男の批判もここに向けられている。決断主義者シュミットという呼称はかれの政治思想の核心をついている」(p.247-8)

 

独裁や「強いリーダー」を待望する声は、いつの世にも存在する。だが問題は、そうした「強いリーダー」がどんな決断を下すか、ということであろう。議会は、議論や投票というプロセスを通じて、決断の正しさを担保する機関であると考えられるが、シュミットの考え方によれば、それは「真理というものが他の意見との関連で他律的に決定されることを承認し、みずから正しいと思うことを議会において実現することを最終的に断念することにほかならない」(p.69-70)。

 

この考え方があやういのは、どこかに「客観的に正しい決断=真理」が存在することが暗黙の前提になっている点である。そして多くの人にとっては、「自分が正しいと判断したこと」がそのまま「正しい決断」なのだ。だから人々は、強いリーダーを期待する。しかしそれは、リーダーが自分と同じ決断をしてくれると思っているからであり、さらには、リーダーの決断に自分の価値観を依存させていくからなのではないか。自分の意見と違うから支持しない、という選択は、そこにはない。

 

シュミット思想の最大の問題点は、「答えのない状況に耐える」ことこそがもっとも現実的で、実はもっとも有効な「危機への対処法」なのだ、という認識を欠いていることであるように思われる。そして、実際に世の中で起きている多くの問題を解決しているのは、誰かさんのような威勢の良い「リーダーシップ」ではなく、答えのない状況の中で数限りない試行錯誤を繰り返し、思考と実践を重ねている現場の名もなき人々なのである。