【1214冊目】カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』
- 作者: カールシュミット,Carl Schmitt,稲葉素之
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2000/09
- メディア: 単行本
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のっけから重要な指摘が登場する。「議会主義、すなわち討論による政治に対する信念は、自由主義の思想圏に属し、民主主義に属するものではない」(「第二版へのまえがき」p.14)というのである。
議会は民主主義に基づく制度であると、われわれはなんとなく思いこんでいる。議会のメンバーは、民意に基づき選出され、国民(あるいは住民)の代表として討論し、議決するのである、と。だから、民主主義のもとで突如「独裁」が出現すると、われわれは戸惑い、叫ぶ。「これは民主主義的ではない!」と。
しかしシュミットに言わせれば、そもそも議会制度は民主主義の帰結でもなんでもない。むしろカエサルからヒトラーまで、名だたる独裁者は民主主義の結果として生まれてきたことにこそ着目すべきなのだ。「近代議会主義と呼ばれるものなしにでも民主主義は存在しうるし、議会主義は民主主義なしにでも存在しうる。そして独裁は、民主主義に対する決定的な対立物ではないし、また民主主義は独裁に対する対立物でもないのである」(p.44)
むしろ議会制度の本質は、自由主義に基づく権力分立の原理にある。自由主義的観点に立てば、独裁は決して存在を許されない。独裁は(「民意」を背景にして)立法と行政の区別を廃棄し、権力の相互抑止という重要な機能を破壊してしまうからである。
この点を理解するには、阿久根市や大阪府、名古屋市でなにがあったかを考えてみるとよい。その施策の善し悪しは別問題として、そこでは、住民に人気のある首長が、その「民意」を背景に、議会を従属させ、あるいは無視しようとしたのではなかったか。
一方でシュミットは、議会そのものが自らの存在意義を破壊しているような例も挙げている。本会議の形骸化と、非公開の委員会の横行である。「言うまでもなく、今日の事態が事実上示しているように、委員会、しかもますます狭められた委員会で事を行い、結局のところついには議会の本会議、すなわち議会の公開性をその目的から疎外し、かくて必然的にそれを表看板にするよりほかには、実際上手がなくなってしまっているのである」(p.66)
このあたりは、委員会の公開が一部を除いて常識となりつつある現在では、妥当しなくなっている部分もある。しかし、仮に公開であっても、委員会に事実上の決定権と討論の場を移してしまうことが、討議の場としての議会の存在意義を自ら失わせることになっていないかどうかという点については、現代の議会においても、真剣に考えるべきであるように思われる。
さらに本書は、後半でマルクス主義と独裁の関係について議論を展開している。ここでは、マルクス主義自体の分析内容もたいへん興味深いが、特に第四章の、ジョルジュ・ソレルを下敷きに、民族主義と議会主義の関係に触れているところがおもしろい。ここで展開されているシュミットの思想には、特にフィヒテなどのドイツ民族主義の影響が強くうかがえる。
「一民族または他の社会的集団が歴史的使命をもっているか否か、また彼らの歴史的な時期が到来しているか否かを決定する基準は、神話のうちにのみある。偉大な熱狂、偉大なる道徳的判断および偉大なる神話は、推理や合目的的考量から生まれるのではなく、純粋な生の本能の深みから生まれるのである」(p.91)
こうなってくると、いかにもキナ臭くなってくるのだが、ここで「推理や合目的的考量」の部分が議会主義に相当するというわけだ。そして、シュミットは、こうした民族的闘争や民衆闘争を「絶対的対立」(Antithesen)と表現し、そうしたものは議会主義的討議の手には負えないものとみるのである。こうした点に議会の限界をみる見方はいかにもシュミットらしいが、同時に、民意やナショナリズムと議会の関係を考える上では見過ごすことのできない指摘であろう。
いずれにせよ、特に市長選を控えた大阪市有権者各位におかれましては、ぜひ一読してほしい一冊。今度投ずる一票の「意味」がわかります。