自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1339冊目】カール・シュミット『パルチザンの理論』

パルチザンの理論―政治的なものの概念についての中間所見 (ちくま学芸文庫)

パルチザンの理論―政治的なものの概念についての中間所見 (ちくま学芸文庫)

いやはや、なかなかの難物だった。シュミットという思想家自体に予断を許さないところがあるし、本書の内容自体、パルチザンというものを固定的に捉えるのではなく、その起源から変遷までをまとめて取り扱っているので、そのあたりの概念の動きを見失わないようにするのが大変だった。要約に徹してまとめてみるが、さて、どうなるか……。

パルチザンの語源はPartei(党派)にあり、もともとはドイツ語で党派人を意味するという(したがって、パルチザンという言葉には政治的な性格が付着している)。しかし実際にパルチザンの嚆矢とされるのは、ナポレオンのスペイン侵攻に対して行われた非正規的なゲリラ活動であったという。(余談だが、ゲリラguerrillaという言葉もスペイン語で「小さな戦争」を意味し、やはりナポレオンに対するスペイン独立抗争において最初に使われた。つまりパルチザンとゲリラはほぼ同義ということになる)。

本書はこの「パルチザン」をめぐる概念と実態の変遷をたどりつつ、もう一方の手で近現代の戦争史を裏側から描き出すという構造になっている。なぜなら、そもそもパルチザンという「戦い方」自体が、それまでのオフィシャルな戦争の枠組みにはおさまらないものであったからである。

問題は、それまでの「ふつうの戦争」がどのようなものであったか、ということだが、これについて著者は、18世紀の戦争を「ゲームとして把握することが可能」なものとして捉えている。ここでは敵は単なる「在来的な敵」として戦争ゲームの相手になるにすぎない。ところがパルチザンの出現は、こうした正規的な戦争のあり方を変えた。「戦争の真剣性を再び回復した……敵は再び現実の敵になり、戦争は再び現実の戦争になった」(p.185〜186)。つまり単純化して言えば、ゲーム化した18世紀の戦争に対して、パルチザンは「ホンモノの戦争」を思い出させたのだ。

ここまででも十分興味を惹かれるのだが、問題はこの先だ。こうしたパルチザン的なるものが大きく変わったのが、レーニンと毛沢東の時代であった。彼らはパルチザン的な戦争を、単なる「現実の戦争」から、「絶対的な敵」との「絶対的な戦争」にまで進めてしまった。ここでは戦争は相手を絶滅させるための活動となる。「現実の敵対関係を否定することによって初めて、絶対的な敵対関係の絶滅活動のための道が開かれるのである」(p.195)

つまりここで、「ゲームとしての戦争→ホンモノの戦争→絶滅戦争」あるいは「在来的な敵→現実の敵→絶対的な敵」という、シュミットが描いた近現代の戦争をめぐる大きなアウトラインが浮かび上がってくるのだ。ちなみにこのあたりの変遷を、日本の戦国時代や幕末、日清・日露から太平洋戦争あたりと重ねてみると、ちょっと面白いかもしれない。

しかしこれを見て、ああ、昔はよかった、などと言ってはいられない。こうしたパルチザンの変容は、おそらく現代のテロ活動にまで行きついているかもしれないのだ。もともと土着的で防御的だったパルチザン活動は、冷戦の下、国際的イデオロギーの指揮下に入って活動するようになり、土地的性格という正統性の根源を失ったというのだから(本書解説、p.235)。そしていまや、宗教的・民族的パルチザンが国境を越えて発生している。シュミット亡き今、本書を継いで、テロリズムや民族紛争、911を踏まえた新しいパルチザン理論が必要となっているのかもしれない。