hachiroetoのものぐさ遊読帖

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【2562冊目】中島岳志『親鸞と日本主義』

 

親鸞と日本主義 (新潮選書)

親鸞と日本主義 (新潮選書)

  • 作者:中島岳志
  • 発売日: 2017/08/25
  • メディア: 単行本
 

 

「他力本願」「悪人正機」で知られ、「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われると説いた親鸞。その教えが戦前の皇国史観と結びついたというのはなんとも意外だが、本書を読めば、その異様なつながりが見えてくる。それは、単なる「教団の時流への迎合」ではない。むしろ著者は「親鸞の思想そのもののなかに、全体主義的な日本主義と結びつきやすい構造的要因があるのではないか」(p.27)と言う。本書はその道筋をさまざまな角度から辿り、日本ファシズム浄土真宗の意外な重なり合いを実証する一冊だ。

 

確かに「他力」という思想は、世の中を批判したり改造したりせず、あるがままに受容せよ、という主張に結びつく。それはまさに「天皇の大御心」に身も心も委ねるということであり、「原理日本」そのものに没入せよということである。そこでは、理想的な社会を作り上げようというリベラル的な発想は「自力」によるものであり、したがって否定されるべきものとなる。むしろ、彼らにとっての天皇とは、日本にとっての本来であり、無批判に、全面的に受容すべきものであった。そうした反知性的で情緒的な日本ファシズムに、親鸞の思想はヘンな形でぴったりと合ってしまったのだ。

 

たとえば歌人でもあった三井甲之は、個人意志を総体意志=日本意志に委ねることを訴え、「南無阿弥陀仏」を「南無日本」「祖国日本」と読み替えた。蓑田胸喜も「天皇の大御心」に包まれた日本への「絶対肯定」「絶対他力」を訴え、『出家とその弟子』がベストセラーになった倉田百三は「すべての主体が『弥陀の本願』と一致する世界」すなわち「天皇に準拠した世界」の確立を目指した。亀井勝一郎もまた、国学親鸞思想を重ね合わせ、「はからい」「自力」「私」を捨ててすべてを大御心に委ねる「絶対他力」の実現を謳った(ところが亀井は戦後になると、一転して「敗戦の自覚とは……罪の自覚でなければならない」と言ったらしい)。暁烏敏は「私共は仏の顕現として天皇陛下を仰ぎまつる」と語り、自分の意見を持つことは自力の道であってそのような計らいは捨てるべし、兵士となって天皇の「仰せ」にしたがい命を捧げることこそ「弥陀の本願」に適うことだと訴えたのみならず「日本は阿弥陀仏の浄土なり」とまで断じた。

 

ここまでくると、すでに仏教とは別の何かになっているとしか思えないが、それでもこうした主張は真宗大谷派のトップクラスの中で大真面目に論じられたのであり、その結果、彼らは戦時協力を決めたのだ。そこにあったのは、単なる信仰の放棄ではなかった。むしろ親鸞の教え自体に、かかる国体論、天皇中心の日本ファシズムと共鳴する部分が間違いなく存在したのである。

 

実は著者自身、若い頃に親鸞思想に傾倒し、そこから保守思想を読み解こうとしていたという。だからこそ、保守を飛び越えて戦前日本の極端なナショナリズムファシズム親鸞思想が転化してしまったことに、大きな衝撃と問題意識をもったのだろう。本書はそんな著者自身の切実さから発しているだけに、「日本主義」の意外なルーツのひとつをあきらかにする、大変スリリングで読み応えのある一冊だ。