【2513冊目】赤坂憲雄『排除の現象学』
本書が刊行されたのは1986年。当時の日本では、すでにさまざまなカタチでの「排除」が起きていた。そして残念なことに、当時と現代を比べると、どう考えても、排除や差別の度合いは増している。なぜこんなことになってしまったのかを考えるうえで、本書はいろんなヒントを与えてくれる。
本書の第1章のテーマは「いじめ」である。ちなみに1986年とは、中野富士見中で男子中学生が自殺した「葬式ごっこ事件」の年である。実際に本書の文章が書かれたのはそれより前だが、すでに各地の学校でいじめによる自殺が報じられ、いじめ問題は広く認識されていた。
著者は学校のいじめを、昔ながらのいじめとは異質なものと考える。学校のいじめの特質は、それが学校という、きわめて均質性の高い場所で起きることにある。著者はこのことと、1979年の養護学校義務化をつなげて考える。障害児という「差異を抱えた子ども」が普通学校から姿を消したことにより、教室内の均質性が高まった。そして、それと同時に起きたのが、差異に基づく秩序の喪失だったのである。
まったく同じような人々ばかりの集団は、かえって秩序が生まれにくい。そして、集団が自分と同じようなメンバーで構成され、秩序が失われそうになると、人はわずかな差異を見つけたてて攻撃することで、どうにか秩序を保とうとするという。フランスの人類学者ルネ・ジラールに依拠しつつ、著者はこう書いている。
「差異の消滅。この秩序の危機にさいして、ひとつの秘め隠されていたメカニズムが作動しはじめる。全員一致の暴力としての供犠。分身と化した似たりよったりの成員のなかから、ほとんどとるに足らぬ徴候にもとづき、ひとりの生け贄(スケープ・ゴート)が択びだされる。分身相互の間に飛びかっていた悪意と暴力は、一瞬にして、その不幸なる生け贄に向けて収斂されてゆく。こうして全員一致の意志にささえられて、供犠が成立する。供犠を契機として、集団はあらたな差異の体系の再編へと向かい、危機はたくみに回避されるのである」(p.63)
つまり、子どもたちはいじめを行い、いじめられっ子を生け贄とすることで、どうにか学校(教室とかクラブ活動とか)における秩序を維持しているというのである。そして、こうした状況は学校の中だけに限らない。例えば、第4章で紹介されている自閉症者施設の「排除」問題だ。
舞台は埼玉県の鳩山ニュータウン。この近くで建設計画がもちあがった自閉症者施設「けやきの郷・ひかりヶ丘学園」に対して、住民たちが反対運動を繰り広げた。問題はこの「ニュータウン」の独特な様相だ。似たような2階建ての戸建て住宅。分譲価格はどれも2700万円前後。ほとんどの家庭で、父親は東京まで通勤し、母と子が残される。収入も生活形態もそっくりの異様に均質的な空間は、さながら先ほど書いた学校の教室のようだ。
そこにやってこようとした「自閉症者施設」は、明らかに彼らにとって異物だった。いや、著者によれば、鳩山ニュータウンの住民は、自閉症者施設という異物の排除を通じて、はじめて共同体たりえたのである。示唆的なのは、ニュータウンが来る前からそこに住んでいた人々は、おおむね施設建設に賛成か無関心であったという事実。彼らにとっては、そもそもニュータウンの住民自体が巨大な異物であって、自分たちを飲み込むガン細胞のような存在だったのだろう、と著者は指摘する。
この種の構造は現代日本にも見え隠れする。少し前に話題となった、港区青山という高級住宅街における児童相談所の建設反対運動も、大騒ぎをしたのは比較的最近住み始めた成金連中であって、前から青山地区に住んでいる人の多くは建設に理解を示していた。均質性が高く異物を認めない、いや、異物を排除することではじめて共同体たりうる、こうした集団の不気味さとは何なのだろうか。
本書は他にも、横浜で起きたホームレス殺害、「イエスの方舟」事件、通り魔事件における「精神鑑定」のあり方など、さまざまな角度から、排除される人々、排除する人々の深層に迫っていく。共通するのは、そこに明らかに「差別」や「排除」が見られるにもかかわらず、排除している側の人々がその自覚に乏しいことだ。
終章では、著者は「健康な差別」「不健康な差別」という別役実の言葉を紹介する。歴史をさかのぼってみれば、差別も排除も常に行われてきた。だが、かつてはホームレス=浮浪者=乞食は「聖なる存在」としての意味ももっており、差別されると同時にどこか神性を持つ者と考えられていた。あるいは、身体的な障害はスティグマ=聖痕としての意味合いを持ち、そうした欠損を背負った者はヒーローでもあったのだ。精神障害や知的障害もまた、差別されると同時に、この世とは異なる世界への回路をもつ、聖なる存在としてもみなされていた。そこでも確かに差別はあったが、それは別役のいう「健康な差別」であったのだ。
一方、本書で紹介されている差別は「不健康な差別」である。それは、差別という自覚なく行われる差別である。「わたしたちが差別という現実から巧妙に逃れ、それとじかに対峙しないですむ心理的な安全弁」(p.307)である。差別をしてもいい、ということではない。だが、差別なしに人は生きられるか。排除なしに集団は成り立つか。差別や排除が避けられないのであれば、せめてわたしたちは、それを「善意」とか「その人のため」とかいったキレイゴトで覆い隠そうとするのではなく、自分が「差別する存在」であること、集団を維持するための生け贄を常に探していることを、痛烈に自覚すべきなのである。逆説的ではあるが、そうした「原罪」をわたしたちが背負っているという自覚だけが、差別、とりわけ「不健康な差別」を減らしていく唯一の方法なのではあるまいか。